終戦の日、平和の尊さを思えばこそ


 きょうは終戦の日。先の大戦で祖国に殉じ、あるいは戦火の犠牲となった300万同胞の御霊に深い鎮魂の祈りを捧げ、「戦争」と「平和」について改めて考える日としたい。

 昭和天皇のリアリズム

 終戦から69年の歳月が流れ、来年は70年になる。しかしなお、大戦に至る歴史や戦争と平和についての論議が絶えない日本である。それは、アジアの近隣国の現状と比べても、自由な言論が生きており保証されている証拠であるとも言える。

 そして、その議論も少しずつ妥当な方向に収斂しつつあるように思われる。集団的自衛権行使容認の閣議決定は、その表れの一つと言えよう。

 いくつかの世論調査結果をみると、集団的自衛権行使に国民の大多数が賛成しているわけではない。だが、国家の安全保障の根幹に関わる専門的な問題について、情緒に流れやすい世論の反応を絶対視する必要はない。内閣が説明を丁寧に行ってさらに理解を得ていくべきだ。

 それよりも、わが国の論壇や責任ある言論機関が集団的自衛権行使に一定の理解を示していることが重要だ。ひと頃と比べれば、まさに隔世の感がある。

 戦後69年、日本は平和を享受することができた。しかし、それは決して、ただ平和主義を掲げてきたからでもないし、ましてや軍備増強反対を叫んできたためでもない。

 そういう空想的あるいは呪術的とも言うべき平和主義や平和運動を装った反日運動の欺瞞性は、冷戦の終結後ますます明らかとなった。「諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持」しようという日本国憲法前文が、世界の現状に全く通用しないことは誰の目にも明白な事実となった。

 安倍晋三内閣が「積極的平和主義」を掲げるのは、不安定さ不透明さを増す世界の現状からして当然の方向である。そしてその根底には、リアリズムを置くべきである。

 戦後のわが国の平和と繁栄は、昭和天皇の終戦の「御聖断」から出発している。民族存亡の淵にあって、昭和天皇は御一身を擲(なげう)って、民族生き残りのため、最も現実的な選択をされた。もちろん、それは堪え難きを堪え、忍び難きを忍ぶ道ではあったが、国家の運命に最終的な責任を持つ立場から、甘い空想を排して決断された。

 われわれ日本国民は、悲惨な戦争体験を通し、平和の尊さについて学んだ。69年間、平和国家として歩んできたことは大きな誇りである。しかし、今後も同じように平和を享受できるという保障はない。その尊さを思えばこそ、平和を維持していくためには何が必要か、国家として何をすべきかを真剣に考え、国民的なコンセンサスを形成していく必要がある。

 自由と平和守る努力を

 また忘れてならないのは、戦後日本が享受してきた平和は、主権や独立性、そして自由を放棄したいわゆる「奴隷の平和」ではないということだ。自由主義陣営に属し、「自由」という平和に優るとも劣らないものを保持し得た。自由と平和を守るためのたゆまぬ努力が求められている。

(8月15日付社説)