桂宮殿下薨去、心打った車いすでの御公務
桂宮宜仁親王殿下が薨去された。殿下は昭和天皇の末弟の三笠宮崇仁親王殿下の次男で、天皇陛下のいとこに当たられる。
皇位継承順位は第6位であられた。心から御冥福をお祈りしたい。
福祉に心を注がれる
2008年9月に敗血症で東大病院に御入院。09年3月に退院された後は公の場に姿をお見せになることはほとんどなくなり、療養を続けてこられた。66歳で、御両親に先立つことになられた。
一連の葬儀の喪主は父の三笠宮さまが務められるが、98歳と御高齢のため、三笠宮家の彬子女王殿下が代行される場合もあるという。三笠宮家の男子は、長男の寛仁親王殿下、三男の高円宮憲仁親王殿下がすでに薨去されており、三笠宮御夫妻の御心痛は察するに余りある。
桂宮さまは、1971年に学習院大学法学部政治学科を卒業された後、73年までオーストラリア国立大大学院に御留学。帰国後の74年から85年までNHKに嘱託として勤務された。大道具の運び役など裏方も体験されたという。
この10年余りの「サラリーマン生活」は、積極的に国民の中に入っていこうとされる桂宮さまの皇族としての独自のスタンスの原点となった。
88年1月、独身のまま桂宮家を創設して独立された。心臓に持病を抱えていた桂宮さまは、同年5月26日に急性硬膜下血腫で倒れられる。以後、車いすでの生活を送られることになるが、懸命なリハビリを続け、公務に復帰された。
日・豪・ニュージーランド協会総裁として国際親善に努められ、97年6月には「大相撲オーストラリア公演」名誉総裁として豪州を訪問された。農業や林業に理解と関心を持ち、大日本農会、大日本山林会などの総裁を務め、その振興のために力を尽くされた。また日本文化とりわけ伝統工芸に造詣が深く、日本工芸会、日本漆工協会の総裁として展覧会にもよく足を運ばれた。
中でも心を注がれたのが、福祉関係の公務だった。障害者スポーツ大会や高齢者施設で、人々を励まされた。御自身が車いすでの闘病・リハビリの生活を強いられながら、公務を果たし、国民を力づけるお姿は、私たちの心に深い感銘とともに刻まれている。
直に接する機会のあった人の話では、桂宮さまは聞き上手で人の話をよく聞かれたという。これは、いまの日本で生活する国民に並々ならぬ関心を持ち、その様々な事情を理解し、国民に寄り添っていこうとされる桂宮さまの姿勢からくるものだったと思われる。
国民のために御尽力
その飾らない気さくなお人柄が、人々の皇室への親しみを増す一助となったことは記憶されるべきだ。40歳で病魔に侵されることがなければ、もっと幅広く多くの活躍をされたに違いないと残念がる声も多い。
「ひげの殿下」として親しまれてきた兄の寛仁さまのような豪放磊落さはなかったが、別の持ち味で国民と皇室の接点となり、国民を助けていこうと尽力された御生涯だった。
(6月10日付社説)