終戦から75年 空想的平和主義は戦争を招く


 きょうは終戦の日。先の大戦から75年の歳月が流れた。戦禍の犠牲となった300万同胞の御霊に鎮魂の祈りを捧(ささ)げ、日本国の尊厳と平和を守る決意を新たにしたい。

軍事的なものを徹底否定

 毎年、この日を前後して、テレビそのほかのメディアは戦争の惨禍を回顧する番組や企画を行っている。埋もれていた秘話など貴重な史実が発掘され、後世に伝えられることは意味のあることだ。若くして戦死した学徒の悲劇や極限を生きた先人たちの言葉には重みがある。

 一方で、それを伝えるメディアの基調は、戦争の結末を知った立場から賢しらに批判し、平和の尊さという結論に落ち着くものが多い。それは多大な犠牲を払って得た多様な教訓を正しく伝える道を閉ざすものだ。

 平和が尊いことは間違いない。「戦争は絶対にしてはいけない」という言葉もしばしば聞く。しかし、それは自衛のための戦争も否定しているように聞こえてしまう。

 戦後のわが国の平和主義は、非軍事的な性格があまりにも強い。軍事的なものを否定し、平和を唱えてさえいれば平和は保持できるという空想的平和主義が定着してしまった。

 東京裁判の判決を受け入れさせ、日本の非軍事化を進めるため、連合国軍総司令部(GHQ)は、軍指導層への国民の憤懣(ふんまん)を煽(あお)り、軍事的なものを徹底的に否定した。それは、憲法9条の戦争放棄、戦力不保持条項によって制度化された。

 軍事=戦争・平和の破壊という短絡的な思考回路は、容易に改めることができないで、今日に至っている。日本が十分な防衛力を保持することをなぜか嫌う左翼勢力が、この空想的平和主義を利用し増長させた。

 だが、まず責任を追及されるべきはその課題を認識しながらも十全に取り組んでこなかった保守勢力である。周辺諸国が核兵器開発に血道を上げ、軍事的な威嚇に出るなど、平和を脅かす挙に出るに及んでも、いまだに国民が安心できる防衛体制や憲法改正をはじめとした法整備ができていない。

 十分な抑止力を持たなければ力の空白を生む。そしてそこに付け入ろうとする周辺国の野心を刺激する。空想的平和主義、抑止力の欠如、力の空白こそ戦争を招くことをはっきりと知らなければならない。

 東西冷戦に突入する中、米国の再軍備要請を吉田茂首相は拒絶した。いまは経済成長に力点を置く時との判断からだ。当時の吉田の選択は正しかったが、当時と今では国力、そして日本を取り巻く安全保障環境は全く異なる。平和への戦略を打ち立てるには、空想的平和主義を培養してきた日本の歴史教育の改革が重要だ。

李登輝氏の教えを生かせ

 先月亡くなった台湾の李登輝元総統は、戦後の日本が公への奉仕や武士道精神などを捨て去ったことを嘆き、もっと伝統的な精神文化に誇りを持つべきことを日本人に再三訴えてきた。外国の偉大なリーダーの言葉だけに説得力がある。日本の歴史や文化への深い愛と理解を持った自由主義者の教えを日本の教育に生かしたい。