梅澤元少佐死去から2カ月、「軍命」説の誤報取り消さず

地元紙に謝罪求める

 沖縄戦で慶良間(けらま)諸島座間味島の守備隊長を務めた元陸軍少佐の梅澤裕(ゆたか)氏が8月6日に97歳で死去して2カ月が過ぎた。戦後、地元メディアは梅澤氏について「集団自決の軍命を下した張本人」として非難したが、最近の二つの裁判の判決を通じて軍命の証拠がないことが明らかになり、「軍命」説の誤報が問題化している。沖縄戦ドキュメンタリー作家の上原正稔氏は、地元紙に誤報の謝罪を求めるとともに、梅澤氏が残した功績を正しく知ってほしいと訴える。(那覇支局=竹林春夫、豊田 剛)

ドキュメンタリー作家の上原氏

「汚名そそぎ功績たたえたい」

「軍命」説の誤報取り消さず

梅澤裕氏の棺に献花する美菜子夫人(中央)と遺族=8月10日、ユアホール甲子園(西宮市)

 「従軍慰安婦問題で朝日新聞の誤報が問題になっているが、沖縄戦での集団自決の『軍命』説も大誤報で、大問題だ」

 梅澤氏と文通で交流を深めていた上原氏にとって、梅澤氏の死去後2カ月が過ぎて、地元マスコミの約60年間にわたる『軍命』説の誤報に怒りを禁じ得ない。

 上原氏は梅澤氏の訃報を聞いた翌日、美菜子夫人に電話した。「もう年ですから」という夫人の言葉に対し、上原氏は「梅澤さんを支えたのは美菜子さん、あなたです」と立派な夫婦愛をたたえた。

 梅澤氏は戦後、「集団自決命令を下した張本人」として地元メディアなどによって「極悪人」に仕立てられた。しかし、最近になって、戦後の琉球政府で軍人・軍属の遺族援護業務に携わった照屋昇雄氏が、「遺族に援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った」と「つくられた軍命」について勇気ある証言をしたほか、2005年8月から11年4月まで行われた「沖縄集団自決冤罪(えんざい)訴訟」(大江・岩波裁判)の判決は、軍命について「真実性の証明があるとはいえない」と明確に否定した。

「軍命」説の誤報取り消さず

報告会を終え手を取り合う梅澤裕氏(右)と上原正稔氏(左)=2013年11月24日、大阪市北区

 上原氏は、沖縄戦当時の集団自決の真相を解明すべく、2007年5月から琉球新報夕刊に「パンドラの箱を開く時」と題した掲載を始めたが、慶良間諸島の集団自決の真相に関する原稿を琉球新報社が一方的に中断したことに対し、「契約違反であり、言論の自由を踏みにじった」として11年1月に琉球新報社を提訴(「パンドラの箱訴訟」)。13年7月29日に福岡高裁那覇支部で上原氏の主張を認め、勝訴が確定した。

 梅澤氏の死後、同氏の「汚名をそそぐとともに、感謝の意を伝えたい」と上原氏は8月12日、県庁で記者会見を開いた。

 「耐え難きを耐え、忍び難きを忍んだ素晴らしい人だった」

 冒頭、こう述べた上原氏は、「昨年の判決を一番喜んでくれたのは梅澤氏だ」とし、判決から数日後に梅澤氏から届いた手紙を読み上げた。

 「このたびは勝訴おめでとうございます。私もびっくりするほどの驚きで家内、息子ども大喜びしております。さっそく軍関係、同期生会、大阪の元軍人会に知らせ関係者はみな大喜びしています。(中略)これから逐次、沖縄の空気も変わってくるでしょう」

 上原氏は、梅澤氏について地元紙が「軍命令をした張本人」として断罪しただけでなく、訃報でも大江・岩波裁判での原告敗訴という結果だけを掲載し、判決で「軍命」の真実性が証明されなかったことに言及しなかったことを強く批判。「新聞は真実を無視してはならない」と訴えた。

 上原氏によると、梅澤氏は生前、自分を貶(おとし)めた故宮城初枝氏や宮城晴美氏に対して「(二人も)犠牲者だ」と言って一切非難しなかった。また梅澤氏は、沖縄戦当時、座間味の住民に対して「自決してはならない」と諌めたほか、部下の少年兵に対して「死んではならない」と玉砕を認めない気遣いを示したという。

 人物像が完全にゆがめられた梅澤氏のために何かしなければならないという思いに駆られている上原氏は、「慰安婦問題で謝罪した朝日新聞の誤報問題は、琉球新報、沖縄タイムスにも通じること。2紙の罪は深い」と「軍命説」の誤報を取り下げていない地元マスコミの責任の重大性を強調した。


お棺の中に「ハンチング帽」

弁護士 徳永信一

「軍命」説の誤報取り消さず

 8月6日に逝去された梅澤裕さんの告別式が挙行されたのは激しい雨の日だった。棺の中に横たわる梅澤さんに近づき最後のお別れを告げようとしたとき、瞑目するご尊顔の傍らに収まったハンチング帽に目を奪われ、しばし、釘付けとなった。

 そのハンチング帽は、昨年11月、沖縄のドキュメンタリー作家、上原正稔さんが梅澤さんを訪れるために大阪に来たとき、那覇で戦ってきた「パンドラの箱訴訟」の逆転勝訴の報告とともに沖縄から携えた贈り物だった。上原さんは、作家の良心に賭け、沖縄集団自決において梅澤・赤松両隊長が発したとされていた軍命がなかったことを、その作品をもって訴え続けてきた。琉球新報が掲載を拒否した連載原稿は、軍命の不在を多数の証言と資料から明らかにしたうえで、沖縄人が人間の尊厳を回復するには、沖縄の復興のために犠牲となった梅澤さんと赤松さんに感謝し、謝罪しなければならないと結ばれていた。

 原稿での訴えどおり、上原さんは、沖縄人を代表して梅澤さんに直接会って謝罪するためにやって来たのだった。お棺に収められたハンチング帽には、「おめでとう ありがとう 僕らのヒーロー 梅澤裕様」の文字があった。釘付けになった目から涙がこぼれた。無責任な言論によるいわれなき誹謗に翻弄された梅澤さんとそのご遺族が、沖縄人を代表して行った上原さんの感謝と謝罪を受け入れてくれたように思えたからだ。最後の別れを終え、僕は、会館の外に出た。まだ降り続く激しい雨が嬉しかった。