テレビの堕落
愛情失ったテレビマン/人材不足から見識・品性欠く
今年はテレビ放送開始からちょうど60年。NHKが昭和28年2月に放送を開始し、同年8月には、日本テレビが開局して民放の先駆けとなっている。このため、2月と8月には、放送開始60年を記念する特別番組が、NHKと日本テレビを中心にあふれた。
だが、どれも自画自賛の番組ばかりで、近年のテレビ文化の為体(ていたらく)を真摯(しんし)に反省する企画がなく、物足りなかったが、やっと「新潮45」12月号に、テレビに対する辛口の論考が載った。演芸評論家の吉川潮氏の「テレビに『愛』があった」だ。
吉川氏はバラエティ、ドラマ、スポーツ、クイズと番組をジャンル毎に昭和と平成を比べながら、「昭和の時代のほうが面白かった」と論評する。昭和の番組を美化し過ぎるきらいはあるが、おおむね共感できるものだった。
たとえば、バラエティ番組。笑いあり、歌あり、劇ありの「てなもんや三度笠」(TBS)などは筆者も子供のころ、欠かさず見た番組の一つだった。「昭和のバラエティのクオリティが高かったのはタレントの人気に頼らず、職人肌のスタッフが妥協せずに作った結果だと思う」。その一方で、「近年のバラエティはタレントの人気に頼るばかりで、放送作家とディレクターがきちんと仕事をしていないからつまらない」と辛辣に批判する。
この分析が的を射ていることは現在、どのチャンネルを見ても、同じ人気タレントばかりが出演していることでもよく分かる。視聴率を稼ぐためだ。しかも、見識を欠いたテレビマンが増えた結果、「公共の電波を軽んじ、テレビに出してはいけない者まで出す」始末。
その代表は「本来日陰の存在であるべきオカマ」だろう。このほか、「弁護士、学者、評論家など文化人と称する専門バカ」あとは「元有名スポーツ選手」「芸人になりそこねたお笑いタレント」などだ。こうしたテレビの堕落には、視聴者の責任もある。芸のないお笑いタレントであろうと、オカマであろうと、視聴率が取れるから出演させるのだ。
結局、「昭和にあって今はないもの、それは詰まるところテレビに携わる人々のテレビに対する愛情ではなかろうか」という。
まったく同感である。愛情がないから、テレビ文化を担っているというプロの矜恃(きょうじ)もない。公共性の高い仕事に携わっていながら、品性にも欠ける。人材不足から、公共の電波を使って、茶の間に下品な番組を送り続けるテレビ局。それを抵抗感なく見続ける視聴者。これでは社会は悪くなる一方だ。
編集委員 森田 清策