米国分断の実相 左派と対決する宗教右派
「丘の上の町」復活への熱望
「私、ジョセフ・ロビネット・バイデン・ジュニアは厳粛に誓約する。誠意をもって、米国大統領の職務を執行すると。そして自分の能力の限りを尽くして合衆国憲法を維持、保護、擁護すると神のご加護のもと誓う」
大統領就任式で、バイデン氏が家で代々受け継がれてきた巨大な聖書に手を置いて宣誓した、伝統の言葉だ。政教分離を原則にしながらも、キリスト教の価値観と強く結び付いているのが米国だ。大統領就任式を見るたびに、そのことを実感する。
新約聖書「マタイによる福音書」に、「あなた方は世の光である。山の上にある町は隠れることができない」という聖句がある。17世紀前半、米国に渡った清教徒の牧師ジョン・ウィンスロップは新大陸上陸を目前に、聖書の教えを基に、全ての人々の手本となるような理想社会を築かなければならないという意味で、「全ての人々の目が注がれる『丘の上の町』とならなければならない」と説教したことはよく知られている。
また、1980年代、冷戦を終結に導き、20世紀で最も偉大な大統領と言われるロナルド・レーガン氏は退任演説で、「輝かしい丘の上の町」という表現を用いて、強い米国を復活させたことを強調した。
筆者は子供の頃、ティンカーベル(妖精)が棒を振ると、きらきらと金の粉が舞い落ちるシーンで始まるディズニーのテレビ番組に夢中になったのを覚えている。あの当時、心引かれたのは神への信仰を前提にした「丘の上の町」の世界観だったのだ、と今さらながらに思う。
前置きが長くなったが、福音派をはじめとしたキリスト教保守派を岩盤基盤とするトランプ前大統領と、極左から中道右派まで抱える民主党やリベラルな新聞・テレビが激しく対立するという形で日本に伝えられる米国の分断は、実はこの「丘の上の町」に象徴されるキリスト教の価値観をめぐる対立であった。
もちろん、大統領選挙には人種差別、経済格差、コロナ禍への対応などの問題も少なからず影響したが、「米国を再び偉大な国にする」と訴えたトランプ氏をリーダーとして、社会がリベラル化する中で失いかけた「丘の上の町」の理想や夢を取り戻そうという人々のうねりがある。それが大統領選挙における7400万票の支持につながったのだ。
一方で、「ポリティカル・コレクトネス」(ポリ・コレ=政治的に正しい言葉遣いをしようという運動)から、メリークリスマスを「ハッピーホリデー」と言い換えさせるなど、キリスト教の伝統を排除するリベラル左派勢力がある。だから、トランプ氏は「もう一度メリークリスマスと言えるようにする」と訴えた。
また、本紙25日付の「バイデンのアメリカ」で、早川俊行編集委員が指摘したように、バイデン氏をホワイトハウス入りさせた民主党にはメソジスト派牧師でありながら、連邦議会の開会式の祈祷(きとう)でポリコレから最後に「アーメン、そしてアーウーメン」と言って、キリスト教の伝統を踏みにじる下院議員もいる。
「アーメン」は性別に関係ない言葉なのに「アーウーメン」を付け加えることで、女性への配慮を示したというわけだが、それを真に受ける信者はどれほどいるのか。キリスト教保守派が憤慨するのは当然だ。
こう見れば、日本の論壇では、分断に喘(あえ)ぐ超大国の実相を「信仰」を軸に分析を試みる論考があってもいいのだが、それがほとんどないところに、わが国における宗教への関心の薄さが表れていると言えよう。
ただ、「アメリカは、やはりキリスト教社会だな」と思わせるルポルタージュが一つあった。ジャーナリストの村山祐介氏が「二カ月、一万キロを走破して、直に聴いた傷だらけの国家に住む人々の本音」と銘打った「『分断国家アメリカ』200人の肉声」(「文藝春秋」2月号)だ。取材したのは昨年10月から12月にかけてだ。
バイデン氏の生まれ故郷ペンシルベニア州スクラントンを訪ねた村山氏は、バイデン氏の生家近くで、「トランプは病的で、国の恥さらしよ」という元保母の声を聞いている。トランプ氏に対する批判の声は日本の多くのメディアが伝えてきたし、ましてや生家近くの住民の意見とあっては、さもありなんという印象を受ける。
だが、同じペンシルベニア州でも別の地域で開かれたトランプ支持集会で、白人の小児科看護師はこんなことを言っている。
「もう黙っていられない。彼は私たちがいるべき場所に連れ戻してくれている」
メディアやリベラル派にどんなに批判されようとも、それに臆せずに白人層の不満や怒りを代弁してくれる、それがトランプ氏だと、支持者の目には映っているのだ。日本のメディアが伝えるトランプ氏のイメージと大きく違っている。では、白人層が自分たちのいるべき場所と考えるのは、いったいどんな場所なのか。
「俺が育った五〇年代はみんな節度があって、聖書に親しんでいた。そのころの価値観を取り戻すことだな」と、造園業を営む男性(76)は語っている。これがまさに「丘の上の町」なのだろう。
19世紀前半に米国を旅して「アメリカのデモクラシー」を書いたフランスの政治学者トクヴィルは多数者が少数者を抑圧する状況を「多数者の専制」と呼んだ。常に専制、独裁者を生み出す危険が付きまとう民主主義だが、革命後のフランスのように多数者の専制が生まれたヨーロッパと違い、アメリカには住民自治、集団・社会の強さがあり、それが専制や独裁者が生まれるのを防いできたと分析した。つまり、アメリカの強さを支えてきたのは、建国以来の信仰の力で、その力が現在も残っているとすれば地方で、それがトランプ支持につながっているのだろう。
では、ワシントンDCやニューヨークなどの都市はどうか。トクヴィルは「一八世紀の哲学者たちは単純極まる説明によって、信仰は着実に弱まると説いた。宗教の熱は、自由と知識の増大とともに否応(いやおう)なく消えると言ったのである。残念ながら、事実はこの理論に一致しない」と述べた。しかし、現在の都市部では哲学者たちの指摘が当たっている。リベラル化の風潮は都市部ほど強くなり、大統領選挙ではニューヨークやロサンゼルスなどの大都市を抱える州やワシントンDCではバイデン氏が勝利した。
産経新聞ワシントン駐在客員特派員・古森義久氏は「ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、CNNテレビに代表される民主党密着の主要な新聞やテレビは、この大統領選挙では一貫して民主党バイデン候補を支持する報道や評論を展開してきた」(「トランプ大統領を『悪魔』化 日米メディアが死んだ日」=「Hanada」3月号)と述べているが、信仰に距離を置く人間が多くジャーナリズムに携わっていることも、アメリカがリベラル化の風潮を強める要因になっている。
そして、日本の特派員たちは、それらのメディアの影響を受けていることと、信仰に対する理解が浅いことが重なり、「バイデン支持の民主党陣営の一方的な主張だけが事実や現実として日本国民の多くに伝えられている」(古森氏)。
「丘の上の町」の復活を望む米国人の夢が日本に伝わらないゆえんである。
編集委員 森田 清策