元気のなくなった週刊誌に「牙を磨け」と檄を飛ばす元週刊現代編集長
◆まるで老人健康雑誌
週刊誌の凋落(ちょうらく)が言われて久しい。一部には「○○砲」と気炎を吐いて、もっぱらスキャンダルを報じて世間の一時的注目を集める週刊誌もあるが、世の中を変えるような潮流を生み出すわけでもなく、人の噂(うわさ)も七十五日、今年夏前に何が“砲撃”されたのかすら、憶(おぼ)えていない。一過性の読み捨てられる記事ばかりが紙面を埋めているのが現状だ。
そんな元気のない週刊誌を叱るのが元週刊現代編集長の元木昌彦だ。サンデー毎日(10月13日号)で「週刊誌よ、今こそ牙を磨け!」と檄(げき)を飛ばしている。元木が認めるように、最近の週刊誌は「毎号、相続問題と高齢者の病気を特集して、老人健康雑誌と見紛う」状態で、元木はそんな「雑誌作りでは、もはや週刊誌である必要はない」と断じた。
そして、昔は「『新聞にできないことをやる』をコンセプトに、新聞批判とスキャンダルを二本の柱に据え」ていたと、週刊誌が元気だった頃の“戦績”をひとしきり懐かしみ、「97年が出版界の売り上げのピークだが、以来、右肩下がりを続け、週刊誌は急坂を転がるように部数を落としていった」と回顧した。
新聞が「オワコン」(終わったコンテンツ)と言われるが、週刊誌も既に老人の読み物となっている。元木が挙げた以外にも、取り上げる話題といえば、病院の評判、相続対策、終活、墓相、老人の性、等々で、高齢読者を想定した誌面構成が目立つ。かといって、今の中年層が高齢者になった時に、週刊誌の読者になるかといえば、それは、おそらく、ないだろう。
◆期待したい本領発揮
メディアとしても、コンテンツとしても、週刊誌は団塊世代が後期高齢者に入っていくのにつれて、消えていく運命なのかもしれない。だが、編集者として一時代を築いた元木は、「『週刊誌は消えていいのか』と呼びかければ、『いいんじゃない』という声が返って来るに違いない」と現状を認めつつも、逆に「今ほど週刊誌にとって可能性のある時代はないのではないか」とエールを送る。
大手新聞やテレビ局は「政権のポチに成り下がって恥じること」がなく、「芸能事務所にモノもいえない」ワイドショーやスポーツ紙ばかりで、「こういう時こそ週刊誌の出番である。週刊誌よ、部数が少ないと嘆くな。共感してくれる読者だけに届けばいい」と気勢を上げた。
西の端に落ちる陽を引き留めるかのような叫びにも聞こえるが、怪力サムソンでも沈む太陽を止めることはできない。ただ「共感してくれる読者」と共に行くしかない。今まで通り、いやさらに“辛辣(しんらつ)さ”に磨きをかけ、悪に対しては暗闇で後ろから殴り付けるような“卑劣な”攻撃も辞さず、週刊誌の本領を発揮してほしいものだ。
とはいうものの、(高齢化する)読者と共に行く週刊誌は、ついに老後や死に方を通り越して「あの世」のことまで載せるようになったのには少々驚いた。同誌の「『死の向こう側』の世界」だ。オカルトや怪談めいた話ではない。記事は「上智大グリーフケア研究所所長・島薗進」によるもので、島薗は東大名誉教授で宗教学者だ。
「『死後の世界』は世の最大関心事」ということで、仏教の来世観、民俗的な他界観、死者の捉え方、生き残った者の在り方、「死後の世界」「死後の生命」について語っている。これこそが「向こう側」の世界だとの結論めいたものは出していない。
島薗は数年前に流行(はや)った歌「千の風になって」を取り上げて、生者にとっての身近な死者、“実在する”死者を説明した。
◆編集者自身も高齢に
筆者にとってピンとくるのはむしろ、ゴッホの手紙に記された「死者を死せりとおもうなかれ、生者のあらんかぎり、死者は生きん、死者は生きん」の詩だ。亡くなった親族の未亡人に宛てて「アルルの花咲ける木」の絵と共に送った。
この世で思う存在がいてこそ「生きる死者」となる。要はどう生きたか、何を残したかが問われる。向こう側に行っても、生者と共に生きるために。
向こう側の世を語り出せば、収拾がつかない。週刊誌が死後の世界を学者に語らせるのを見て、編集者も高齢になっていたことに気付かされる。(敬称略)
(岩崎 哲)