新札モデルの子孫対談で渋沢、北里の足跡たどった週刊朝日の好企画

◆二人の立身に共通項

 今週、心に残ったのは週刊朝日(10月4日号)の「新札モデルの子孫対談」。2024年に発行される新1万円札モデルとなった渋沢栄一の曽孫・渋沢雅英氏(渋沢記念財団理事長=94)と、新千円札の北里柴三郎の孫・北里一郎氏(学校法人北里研究所顧問=87)が座談している。

 栄一は1840(天保11)年、柴三郎は53(嘉永5)年生まれで、栄一が13年早いが、没年は2人とも1931年。 実業界と片や医学界と立身の道は違うが、同時代に生きた二人には共通項も少なくなく、両者の活動を通し新時代の姿が立体的に浮かび上がっている。

 栄一は尊王攘夷思想の影響を受け、高崎城の乗っ取りや横浜の焼き討ちを企てる。

 <渋沢> 1863(文久3)年ですね。実行していれば殺されていたでしょうが、運よく思いとどまった。

 その後、京都に出て、一橋家の徳川慶喜に仕えた。

 柴三郎は熊本出身。熊本では士族が反乱を起こす神風連の乱が起こり、騒然とした世情の中、熊本医学校に入学。後に日本の医学教育制度を確立したマンスフェルトというオランダ人医師に出会う。柴三郎は、軍人か政治家になりたいと思っていたが、

 <北里> 顕微鏡を覗(のぞ)くうちに微生物の世界に魅せられる。生意気にも、「医学、学ぶに足る」と医学への道を決意したわけです。

◆海外遠征で実力涵養

 二人は海外遠征や留学で見聞を広げたり、研究を極めたりした。栄一は、慶喜の弟、昭武にお供しパリ万博に行き、欧州にしばらく滞在。

 <渋沢> 人生の転機でした。30人近い昭武のお供が、外国で1年半も生活するには金が要る。庶務担当の栄一は、現地で公債などの投資で資金を増やしてしまう。実地で学んだ経済学は大いに役立ったはずです。

 内務省勤務の柴三郎もドイツ留学が人生の転換期となった。1889(明治22)年には、世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功する。

 <北里> 翌年には、免疫血清療法を発見したものの、留学期間は終わろうとしていた。すると、柴三郎の活躍を耳にした明治天皇が、「ぜひ研究費を送ってやれ」と千円も送金くださり、助かった。今の貨幣価値で1千万円です。

 というエピソードも。進取の精神に富む柴三郎の研究ぶりだが、栄一も負けていない。民間から商工業を興そうと、73(明治6)年に大蔵省を退職。同僚から「商売のような軽蔑される仕事で、どう生きるのか」と忠告を受ける中での決意だった。しかし

 <渋沢> 驚いたことに、1年もすると、すっかり人気も信用も得てしまう。銀行の頭取や商工会議所の会頭、日本鉄道会社や東京電力から東京石川島造船所まで、経済インフラを確立するために奔走します。

 柴三郎は、1901(明治34)年、第1回ノーベル医学生理学賞の候補となった。が、当時は日本人研究者への評価は低く、共同研究者のベーリングが受賞した。

 <北里> しかし嬉しいことに、2015年、柴三郎の孫弟子にあたる大村先生が(中略)同じ医学生理学賞を受賞しました。お祝いの席で私は、「114年を経た受賞に、柴三郎が墓地で喜んでいる」と述べたほどです。

 二人に接点もあり、13(大正2)年の日本結核予防協会の設立で、栄一が副会頭、柴三郎が理事長を務めている。

◆二人の出現は共時性

 時代の転機となる重要な出来事が、複数の場所で脈絡なくほぼ同時に起こることをシンクロニシティー(共時性)という。例えば、オーストリア出身の牧師メンデルは、生物の遺伝現象の法則性を、一方、スイスの生化学者のミーシャーは後にDNAと呼ばれる物質を、共に19世紀の後半に発見、現代生物学の方向性を決定づけた。

 渋沢栄一と北里柴三郎の二人の出現も、そのシンクロニシティー現象と思えてくる。二人の人物をマッチングさせた週刊誌の良企画である。

(片上晴彦)