東電無罪判決、「安全神話」づくりに手を貸した朝日は「罪なき者」か

◆反原発で過激な闘争

 「汝らのなか、罪なき者まず石をなげうて」(ヨハネ福音書)。福島第1原発事故をめぐって、業務上過失致死罪に問われた東京電力の旧経営陣3人に対して東京地裁は無罪を言い渡した。この判決を聞いて頭に浮かんだのはこの聖句だった。

 産経は言う、「強制起訴自体に無理があった。千年に1度といわれる巨大津波によって4基の原子炉が同時被災した類のない事故の責任を、個人に求めるのは、反原発感情に根差した応報の感が拭えない」(20日付主張)。一方、朝日の「天声人語」は無罪判決を下した裁判官に石をなげうつように「鈍感力」のレッテルを貼る(22日付)。まるで「罪なき者」のように。

 もとより原発事故は罪深い。判決はリスクが一切あってはならないという「ゼロリスク」の過大な追及を退けた。それも今日の産業社会では妥当かもしれない。それでも「無罪」は釈然としない。刑事裁判上は「無罪」でも、「罪」はあろう。現に旧経営陣を含め東電は「謝罪」し、民事裁判では有罪もある。だが、その「罪」はひとり東電だけのものか。朝日などの反原発派は「罪なき者」と言えるのか。

 わが国で原子力の平和利用が始まったのは1954年のことだが、同年にビキニの水爆実験で第5福竜丸が被爆。これに対して共産党などの左翼勢力は一斉に反米・反原爆・反原発運動を始めた。56年に原子力委員会(初代委員長、正力松太郎氏)が設置されると反原発姿勢をさらに強め、63年に米原子力潜水艦の寄港問題が持ち上がると原子力=原爆=放射能=破滅の構図を描き、過激な闘争を繰り広げた。

 電力会社が原発事故の避難訓練を口にしようものなら、彼らから「事故が起こるから訓練をするのだ」といった批判にさらされた。それで地域住民との避難訓練を行わず、社員の家族をエキストラに使った訓練でお茶を濁した。政府も電力会社もことさら原発安全論を宣伝した。そこからオール・オア・ナッシング、イエスかノーかのいびつな原発意識構造が生まれた。皮肉なことに反原発派が「安全神話」づくりに手を貸したのだ。

◆軽微な事故で大騒ぎ

 2007年の新潟県中越沖地震ではこんなことがあった。東電の柏崎刈羽原発から使用済み核燃料の貯蔵プールから放射能を含む水があふれ出し、一部は海に流出した。排出基準の10億分の1から1000万分の1程度だったが、朝日は一大事件のように書き立て、海外では「チェルノブイリ級被害」との報道まで登場。国際原子力機関(IAEA)が調査団を送り込む騒ぎとなった。

 IAEAは、被害は軽微で原子炉は安全に停止しており、損傷は限定的とする調査結果を発表し、この「安全宣言」で騒動が収まった。ことほどさように左翼メディアの反原発姿勢はすさまじかった。

 今回の裁判では東電子会社が試算した「最大15・7メートル」の津波可能性の予見が焦点となったが、試算はこの“事件”の翌08年のことだ。経営陣に「安全神話」を壊したくない心理が働いたのは容易に想像できる。その意味で反原発派は福島第1原発事故を招く土壌をつくった。

◆最も罪深い憲法9条

 最も罪深いのは憲法9条である。自衛隊を違憲扱いし、非核三原則をはじめ、さまざまな縛りで自衛隊を核から遠ざけ、原発事故における有事も想定させなかった。これは海外ではあり得ない話だ。どの国でも非常事態への対応は軍が行っているからだ。

 フランスでは軍の放射線防護支援センター(SPRA)が核攻撃防護に加え、原発の事故対応も担う。米国ではエネルギー省が担当するが、軍も加わり平時に合同演習を重ね、迅速な対処を目指す。こんな態勢を9条(護憲=反原発派)はつくらせなかった。これこそ罪万死に値する。

 それでも護憲・反原発の朝日が「罪なき者」と言い募るなら、それこそ「鈍感力」の汚名を免れない。

(増 記代司)