戦没者追悼式で「被害」に言及した首相式辞に注目した産経と批判の朝毎

◆「加害」ないのは当然

 令和初の全国戦没者追悼式が先週、開かれた。新聞が焦点を当てたのは2点だった。一つは言うまでもなく、初めての御参列となった天皇陛下の御言葉、もう一つは安倍晋三首相の式辞である。

 天皇陛下は、御言葉で「過去を顧み、深い反省の上に立って」と、上皇陛下が戦後70年の2015年に盛り込んだ「深い反省」に言及。戦陣に散り、戦禍に倒れた人たちに追悼の意を表し、世界の平和と国の発展を祈られた(読売16日付)。他紙も同様の視点で報じている。

 一方、安倍首相の式辞については毎日が「今年も『加害』触れず」(16日付)、朝日が「今年も『反省』の文字はなかった」(16日付社説)と批判する。だが、朝日社説も言うように安倍首相は戦後70年談話で「子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を負わせてはなりません」と述べている。式辞に「加害」がないのは何ら不思議ではあるまい。

 これに対して産経は「首相 原爆・沖縄戦に初言及」(16日付)に注目する。昨年の式辞では戦場に散った犠牲者らに対し「御霊安かれ」と敬意と謝意を表明したが、今年はこのくだりに、「広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などで、無残にも犠牲となられた方々」を加えた。「被害」への言及である。

 他紙も触れてはいたが、産経のように「意義深い」(閣僚経験者)と言ったコメントはなく、さほど注目していない。首相が「被害」にスポットライトを当てるのは、大げさに言えば、戦後初めてのことではなかろうか。

◆謝罪求め続ける朝毎

 東京裁判で東郷茂徳らの弁護人を務めたブレイクニー米陸軍少佐は、昭和21年5月14日の法廷で「広島・長崎への原爆投下という空前の残虐を犯した国の人間に日本の『人道上の罪』を問う資格はない」と発言し、裁判所を騒然とさせたことがある。

 法廷は「条例」で同時通訳を義務付けられていたが、これを即座に停止し、最後まで復活することがなかったというから、ブレイクニー発言の衝撃度が知れる(小堀桂一郎編『東京裁判 幻の弁護側資料』ちくま学芸文庫)。

 東京裁判で判事11人のうち唯一人、「日本無罪」を主張したインドのパール判事もブレイクニー弁護人と同様の考えを示した。第1次大戦では無差別殺人を命令したドイツのウィルヘルム2世は国際法の違反と人道上の罪によって戦争犯罪人に指名された。ナチの指導者によるユダヤ人大量虐殺はニュルンベルク裁判で処断された。一瞬にして老若男女の差別なく、幾十万の非戦闘員を殺戮(さつりく)し、一本の木、一軒の家も立っていることを許さない原子爆弾の投下を命令し、授権し、許可した者に対する処断はいったいどうするのか、と(田中正明著『パール判事の日本無罪論』小学館文庫)。

 こうした問題提起にキーナン首席検事は沈黙し、ウェッブ裁判長は「法廷は敗戦国日本を裁くもので、連合国側の責任は一切取り上げない」と宣言し、ブレイクニー弁護人らの主張を退けた。こういう歴史的事実を顧みず、朝毎は日本にいつまで謝罪の頸木(くびき)をはめ続けるつもりなのか。

◆解けぬGHQの呪縛

 故・江藤淳氏の指摘が改めて想起される。江藤氏は占領軍の日本弱体化計画「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」を暴き、「占領と検閲」が続いていることが「戦後日本の問題」と論じた。朝毎の安倍批判は連合国軍総司令部(GHQ)の呪縛から脱却できない戦後ジャーナリズムの醜態をさらすものだ。これだから、いくら国際条約でケリをつけても徴用工問題などであらぬ難癖を付けられるのだ。

 戦後74年を経て安倍首相が戦没者追悼式で一石を投じたのは間違いない。むろん米国を裁くためではあるまい。東京裁判の「虚偽」を問う。これも戦後左翼ジャーナリズムに対する安倍流の宣戦布告と言えば、言い過ぎだろうか。

(増 記代司)