若者の「旧メディア」離れでもはや老人の読み物と化した週刊誌の行く末

◆新聞読まずTV見ず

 若者が新聞を読まなくなって久しい。日刊紙の部数は年々減っている。笑えない話がある。小学校で「図工で使うのであした新聞紙を持ってきて」と先生に言われる。夜お父さんがコンビニに走ってスポーツ紙を買ってくる。翌日の教室にはスポーツ紙の派手なカラー面が並ぶという。

 そもそも小学生がいるくらいの世代は宅配の新聞を取っていない。夜、親が帰ってきてあしたのことを聞く。さてどうするか、そうだコンビニに売っている。どうせ買うのだから、わざわざ一般紙の朝刊よりもスポーツ紙の方が読むところがある。なので、教室にスポーツ紙の花が咲く、となる。

 減っているのは新聞だけではない。テレビの視聴者もそうだ。今どきの若者はテレビを見ない。目の前にテレビがつけっ放しになっていても、手元のスマートフォンで動画サイトを見ている。

 さらに新聞テレビが見られなくなっただけではない。週刊誌も同じだ。もともと週刊誌は通勤途中や職場、あるいは何かの待合室などで読み捨てられる存在だ。家庭に持ち帰られるものではない。

 ところが、その数少ない“週刊誌を読む場所”であった車内で、今、週刊誌を広げている人は絶無だ。ほぼ全員がスマホを見ている。ほぼ全員とは少し盛り過ぎた。8割くらいか、スマホを見ているのは。それでも多い。活字を読んでいるのは1車両に文庫本が1、2冊程度。

 「旧メディア」とか呼ばれてしまう新聞やテレビの今後はどうなるのか。プリントメディアの将来は確実に細っていく。もちろん、新聞や書籍はなくならない。今でもおびただしい量の本が出版されている。ただしプリントメディアの中で新聞や週刊誌の将来は決して明るくない。

◆ターゲットは中高年

 若者はデジタルへ、だから印刷物のターゲットは中高年以上となる。勢い、週刊誌も読者層に合わせた企画を打ち出さざるを得ない。誌面を見ればそれが如実に痛々しいまでに表れている。

 この週は似たような企画が並んだ。「おひとりさまの『在宅大往生』」(サンデー毎日2月17日号)、「葬儀をせずに幸せに逝く」(週刊朝日2月15日号)、「『死後の手続き』35問」(週刊文春2月14日号)。

 そろそろ親を送る年齢になってきた定年前後の世代が関心を寄せそうな企画だ。確かに見出しに吸い寄せられて手に取ってしまう。狙いがはっきりしているところは評価できる。

 昔は、というと何時代かと突っ込まれそうだが、葬式や親の看(み)取りは親戚や知人、近所の人がそれとなく教えてくれたり、見聞きしながら、見送りという大事業をこなすことができたが、今はそれができない社会になったということだろう。週刊誌に教えてもらわなければならないのだ。

 時代を反映した記事が週刊朝日の「葬儀をせずに…」だ。最近、大きな葬儀は政治家や芸能人、大企業の経営者でもなければ行わない。会社などは組織の裏付けがあるからできる。それが田舎の名士が逝った日には大変だ。莫大(ばくだい)な費用、その後のお付き合い等で遺族の負担はばかにならない。だから新聞のおくやみ欄に「既に家族葬で行いました」をよく目にするようになったのだ。

 「小規模で行う家族葬が主流となり、年々、簡素化が進む」と同誌は伝えている。真心を込めて故人を送る、という基本さえ守れていればいいのだ。白洲次郎は遺言で「一、葬式無用、一、戒名不用」と残し、「遺族が集まって酒盛りをしただけ」だったと同誌は紹介する。

◆付け焼刃は通用せず

 さて、今の読者層が高齢化し減っていった先に、週刊誌はどう生き残ろうとするのか、はたまた「家族葬」でひっそりと逝くのか。

 蛇足だが、グループタレントの「嵐」は社会現象なのか。朝日も毎日も大きく取り上げている。まさか、これで若い読者を獲得するつもりではないだろう。若者の話題に付いていくための情報だとしたら、そんな付け焼き刃は見抜かれる。

(岩崎 哲)