報道を「権力の敵」と規定し国家と国民の対立をあおる朝日「素粒子」

◆本音丸出しのコラム

 朝日の夕刊題字下の時事寸評コラム「素粒子」は、朝日の本音をしばしば丸出しにする。例えば、幼児連続殺人犯の死刑を執行した故・鳩山邦夫法務大臣を「死に神」と呼んだ。死刑廃止を唱えているからだ。

 その素粒子が18日付でこう言った。「報道は『権力の敵』であっても、『国民の敵』ではない。だからこそ、権力は報道と国民の対立をあおる。国民の知る権利を嫌うがために」

 どうやら米国のトランプ大統領とメディアの対立を取り上げているようだ。トランプ氏は一昨年の大統領選以来、「フェークニュースのメディアは米国民の敵だ」とツイートし、これに対抗して米紙が16日付に「国民の敵ではない」との社説を一斉に掲げた。

 これを朝日18日付朝刊は「時時刻刻」で大きく報じ、社説では「自由な報道 民主主義の存立基盤だ」と応じた。朝日は反トランプ派の筆頭ニューヨーク・タイムズと提携しているから当然のエールか。ちなみに同紙東京支局は朝日本社ビル内に置かれている。

 だが、本紙読者ならトランプ氏の「メディアは国民の敵」の言わんとするところは少なからず理解できよう。連載シリーズ「米国の分断」(編集委員・早川俊行氏)で、米紙の実態が紹介されていた。

 例えば、ニューヨーク・タイムズ紙は5月、マルクス生誕200年に合わせ「誕生日おめでとう、カール・マルクス。あなたは正しかった!」と題する論文を掲載し、全世界で推定1億人以上に死をもたらした共産主義思想の生みの親を称(たた)えた。

 昨秋には1917年のロシア革命から100年に合わせ、レーニンが環境保護に熱心な「エコ戦士」だったとか、共産主義体制下の女性たちは性生活を満喫していた、などと主張する論文を載せた(7月23日付)。

 これではトランプ氏ならずとも「フェークニュース」と呼びたくなる。朝日によれば、一斉社説に対しトランプ氏はツイッターで「フェイクニュースのメディアは野党だ」と反論している。大統領選では240紙以上が対立候補だったクリントン氏を支持し、トランプ支持は19紙にすぎなかったと言うから「メディアは野党」は本当のことだろう。

◆権力の敵は国民の敵

 朝日もまた、「野党」だ。先の通常国会の終了後、国会担当の斉藤太郎記者は、「森友・加計問題の追及で気を吐いた野党は共産党だった。独自に文書を入手して政府を攻め立てた。それ以外の野党は報道に頼りがちだった」(7月24日付)と振り返っている。野党が頼った大半は朝日記事だ。逆に言えば、朝日が野党を操った。まごうことなく朝日は「安倍政権の敵」だった。

 だが、素粒子の言う「メディアは『権力の敵』」という見方は理解不能だ。権力についての一般的見解から懸け離れている。権力を教科書的に解説すれば、こうなる。

 ―民主国家では統一的な集団意思の決定が政治の最も重要な局面とされ、この統一的な意思決定の結果は社会の全成員が遵守(じゅんしゅ)することが求められ、遵守を拒むものには制裁が加えられる。「権力とは社会秩序を維持するための制度化された強制力を指す」(阿部斎『政治学入門』)。

 これが常識的な見方だ。権力がなければ、国民は安心して暮らせない。「権力の敵」とは警察署から逃亡した容疑者とか、あるいは暴力団とか、社会秩序を破壊する者や集団を言う。だから「権力の敵」は「国民の敵」でもある。

◆マルクス流の国家観

 もとより民主主義社会において報道は権力が暴走したり、不法に行使されたりするのを監視する機能や世論形成の役割も担う。だからメディアは立法・行政・司法に並ぶ「第四権力」とも称される。その意味で自らも権力を持つ。毎日も一斉社説にエールを送るが(18日付社説)、報道を「権力の敵」とは言わない。

 それだけに素粒子の「権力の敵」は異様だ。それは国家を「階級国家」と捉え、打倒の対象とするマルクス流国家観を信奉しているからではないか。

 とすれば、素粒子を逆手に取って、こう言うべきか。「だからこそ、朝日は国家と国民の対立をあおる。国家を打倒したいがために」と。朝日がマルクスから解放されるのはいつの日か。

(増 記代司)