都合の悪いニュースは小さく扱い、その批判は容赦なく展開する朝日
◆「君が代訴訟」が決着
先のワールドカップ(W杯)ロシア大会では試合前セレモニーで、特大の国旗がフィールドに登場し、国歌が演奏されたことは記憶に新しい。
今さら言うまでもないが、国旗国歌はその国の歴史と伝統をシンボル化したもので、国と国民を愛する象徴的行為が国旗掲揚、国歌斉唱だ。世界では各種の式典で行われ、違和感を持つ人はまずいない。国旗国歌を尊重しない行為は国民への侮蔑と見なされ、非難の対象となる。それほど大切だと認識するので、他国の国旗国歌も尊重するようになり、そこから国家間の友好、真の国際関係が生まれる。
このことに改めて思い致すのは、東京都立高校の元教職員らが都と争っていた「君が代訴訟」に決着がついたからだ。元教職員は校長の服務命令に反し、卒業式や入学式での君が代斉唱で起立しなかった。それで都教委は服務規程違反で処分し、退職後に嘱託職員として採用しなかった。
ところが、元教師らは違憲だとして提訴し、下級審では起立の職務命令を合憲としたものの、不採用を裁量権の逸脱として都に賠償を命じた。これに対して最高裁は7月19日、「職務命令違反は式典の秩序や雰囲気を一定程度損なう。再雇用すれば、同様の違反行為に及ぶ恐れがある」として都の対応を認め、下級審判決を取り消した。
当然の判決だろう。教職員は都の方針を真っ向から否定していた。下級審判決は「起立と斉唱の職務命令は、教育指導に関する他の命令と比べ、とりわけ重大とはいえない」と国歌を著しく軽視していた。
それにしてもこれほど自国の国歌をさげすんでいる教職員がW杯参加32カ国の中に果たして存在するだろうか。そんな国は日本を除いて1国たりともあるまい。それだけに最高裁判決は世界の常識に立ち返らせたとも言える。
◆報道に先んじる社説
ところが、朝日20日付社説は「君が代判決 強制の追認でいいのか」とかみつき、「憲法が定める思想・良心の自由の重みをわきまえぬ、不当な判決」と断じている。この社説は14面のオピオン面に載ったが、肝心の判決記事は29面の第3社会面、それも2段見出しという地味な扱いで報じていた。
明らかに社説が報道に先んじている。4月に最高裁は2審の結論を変更する際に開く、上告審弁論を開くと決めていたから、論説陣は手ぐすねを引いて判決を待っていたに違いない。朝日にとって都合の悪いニュースは小さく扱い、その批判は容赦なく展開する。そんな朝日の編集姿勢が露骨に表れている。
なぜ朝日はかくも君が代を排除するのか。社説は「戦前の軍国主義と密接な関係がある日の丸・君が代にどう向きあうかは、個人の歴史観や世界観と結びつく微妙な問題だ」と言う。いささか筋違いな国旗国歌批判だ。
個人の歴史観や世界観は尊重されてよいが、都立学校の教員は単なる個人でなく公僕たる公務員で、公教育に携わっている。改正教育基本法は「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできたわが国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」とし、学習指導要綱で国旗掲揚・国歌斉唱の徹底指導を明示している。
それにもかかわらず校長の服務命令に逆らい、法律で国歌と定められた君が代の斉唱を拒否する。しかも不起立を見せることで自らの思想を生徒に押し付けようとした。それほど自らの思想に忠実でありたいなら、公務員を辞めればよいと思うが、むろん朝日には馬耳東風だろう。
◆「八咫烏」批判の予感
朝日社説に追従するかのように毎日22日社説は「行政の裁量広げすぎでは」と判決を批判、これに対して産経23日付主張は「国旗国歌の尊重は当然だ」と切り返している。どうも左派紙は国旗国歌の意義が理解できないらしい。
ところで、日本サッカー協会(JFA)のシンボルマークは神武天皇を大和の橿原まで導いた「八咫烏(やたがらす)」だ。『古事記』など日本神話に登場する八咫烏は導きの神で、日本に勝利をもたらす祈願が込められている。
この八咫烏に対して朝日が「戦前の軍国主義と密接な関係」を言い出さないとも限らない。そんな予感もする異様な「君が代」つぶし社説だった。
(増 記代司)