成田開港40年で「闘争」支援の過去に口をつぐみ政府を批判する朝日社説

◆極左派が建設を妨害

 成田空港が開港して40年を迎えた。ゴールデンウイークに離発着ビュースポットの「さくらの山公園」と「ひこうきの丘」を訪ねたが、大変なにぎわいだった。「撮り鉄」ならぬ「撮り飛」か、カメラを構える人、レシーバーで航空無線に聞き入る人、航空会社のマーク一覧を手に歓声を上げる人もいて、航空ファンの多さに驚かされた。

 新空港建設が閣議決定されたのは1966年7月のことだ。地元農民らは翌8月に三里塚芝山連合空港反対同盟を結成。これに極左過激派が介入し成田革命闘争へと転化させた。71年9月の第2次代執行では機動隊が襲撃され、警察官3人が殺害される東峰十字路事件が起こった。

 78年3月に開港予定だったが、過激派が管制塔を襲撃し、開港が2カ月遅れた。筆者は70年代初めに闘争のシンボルだった鉄山鉄塔や団結小屋を取材したことがある。森と野原を分け入るように車を走らせた記憶が鮮明だ。それが今日、周辺地域を含めて一大発展を遂げている。

◆読売千葉版で好連載

 読売千葉版は「成田開港40年 それぞれの思い」を連載している。15日付の1回目に「闘争経て『空港と歩む』 強制力捨てた国と握手」との見出しで、反対同盟熱田派の元事務局長、石毛博道さんの回顧談が載っている。

 管制塔襲撃当時、反対同盟の青年行動隊員だった石毛さんはゲリラ戦で勝機があると歓喜したが、その後、反対派は減り、熱田派と北原派に分裂。熱田派事務局長として国との話し合いのテーブルに着き、94年に亀井静香運輸相(当時)と歴史的な和解をした。「共生・共栄はこれからが本番」との言葉が印象的だ。

 芝山町の相川勝重町長は19日付に登場する。20歳で成田闘争に身を投じ、国との和解後、3度目の挑戦となった97年の町長選で空港との共生を掲げて初当選、6期目を迎えた。空港を生かした観光振興に取り組んでいるという。

 連載には今も反対運動を続ける北原派の人物や中核派元活動家らの話もあり、それぞれの思いには感慨深いものがある。千葉の読者だけに読まれるのは惜しい。全国版で伝えてよい企画記事だ。

 朝日千葉版(20日付)は成田国際空港会社(NAA)が空港周辺の騒音の激しい地域を対象に、開港40年の記念品を一軒一軒、手渡しすると報じている。この記事にもほっとさせられる。そんな思いになるのは成田闘争の激しさが蘇るからだろうか。

◆対話否定は「闘争」側

 それだけに朝日20日付社説「成田開港40年 『急がば対話』教訓今に」には違和感を禁じ得ない。「(成田開港を)閣議で一方的に計画を決め、土地を収用し、機動隊を投入して抑えこむ。そんな政府の姿勢が抵抗運動を激化させ、反対派、警察官、工事関係者らが何人も亡くなるなどの悲劇を生んだ」と、政府の責任だけを一方的にあげつらい、地元農民と極左集団を引っくるめて「反対派」と記し、警察官殺害を「亡くなった」としらっと書いている。

 当時、「暴力革命」を唱える過激派は60年安保闘争の後、65年日韓闘争に続く、絶好の闘争課題と捉え、ベトナム反戦闘争と連動させて「三里塚で機動隊を打ち破る」「新空港は日本に新たな軍事基地を作るものだ」と叫んでいた。

 朝日はそれに同調し「成田闘争」の文字を紙面に躍らせ(今日のモリカケの比ではない)、「大応援団」の役割を担った。そのことを亡失したのか、朝日社説には「成田闘争」のトの字もない。

 朝日は「国が対話路線に転じたのは、90年代に入ってからだ」と難ずるが、そもそも対話路線を真っ向から否定していたのは「成田闘争」側だ。対話が可能になったのは東西冷戦が終焉(しゅうえん)し、左翼の力が減じたからだ。極論すれば、朝日的論調がのさばっていたから対話ができなかったのだ。それを棚に上げての政府批判とは恐れ入った社説である。

(増 記代司)