図らずも米国の大量消費・廃棄社会の弊に気づかされるNW日本版

◆CO2対策で違和感

 ニューズウィーク日本版(1月16日号)「地球を救うビジネスモデル」の記事は異常気象をテーマにした記事だが、それを克服する方策や切り込み方に違和感がある。

 「自然資本が枯渇するほど急速な経済成長を、私たちは求めてはいけない。求めるべきは環境の汚染や破壊を伴わない『クリーン』な成長であり、一方で環境保護が技術革新や経済成長を阻む事態も避けなければならない」と、そのための事業の例も挙げる。

 一つはコロンビア大学の経済学教授が提案するもので「大気中に放出されたCO2を回収し、地中や水中に封じ込めることが必要(中略)、貯蓄したCO2を売買できるような市場をつくり出す」。また生物学者、アラン・セイボリーの「CO2を含んだ家畜の排泄物などを地中に埋めて肥やしにし、土壌を改善する『再生農業』」の挑戦ぶりを紹介している。

 ただし、「民間企業もこぞってCO2貯蓄ビジネスに参入」しても「貯留したCO2の供給が増えて価格が下がった場合にも利益が出る保証はない」として「気候変動との戦いのせいで国民の生活の質が下がらないように配慮が必要だ」と続ける。確かにその通りだが、その先の経済競争を見越し、開発にブレーキをかけるようなことを、まだ研究成果も上がっていない段階で言うのは禁物だ。

 また、環境破壊が異常気象の原因と認めながら、「たとえ大企業が贖罪のため本気でアマゾンの熱帯雨林再生に取り組んだとしても、地球の総人口が今も増え続け、それだけ多くのCO2を吐き出しているという事実は変えられない」「いくら『自然資本』の保護に対する投資を増やしても人口増の影響を相殺できる保証はなく、政府が企業の利己的な行動を阻止できる保証もない」と。この主張も、自然保護に対する無力感が先立っているし、大企業の力や本気度について過小評価している。

 再生可能エネルギーの可能性についても、かなりシビアだ。「再生可能エネルギー産業は今後の賃金と雇用の動向に新たな難題を突き付ける可能性がある」「一般論として、こうした新産業に集まってくるのは他業種からの転職者であり、石炭産業などからあぶれた失業者ではない。新しい産業が生まれれば全体の雇用が増えると考えるのは愚かなことだ」と。

◆米国二分の環境対策

 NW記事の筆者の煮え切らない主張、記事内容は、米国の異常気象に対する取り組みの混迷を象徴している。米国では、トランプ大統領がパリ協定離脱を表明したが、それに対抗し、昨年ドイツで開かれたCOP23には、カリフォルニア州など複数の自治体が「気候同盟」を組み、知事らが参加、非政府組織(NGO)によるパビリオンで訴え気勢を上げた。これらの勢力が、必ずしも環境保護か企業の生産性向上かという二分化に対応するものではないが、環境対策の実行力をそぎかねない対立的な様相を示している。

 結局、米国の場合、お国柄というか、人々の習い性になっている大量消費・廃棄社会を是としてしか議論されていないのだ。

 1970年代、世界に広がった石油ショック時、米国はなまじ国内に石油資源を抱えているものだから、浪費経済がなかなか収まらなかった。産業面でも輸出向けの石油を国内用に回して自国の産業を擁護するなど、省エネ対策はあってなきがごときだった。CO2削減も、省エネ、国民の節約精神を発露させないと、結局うまくいかないだろう。

 日本も大量消費、大量廃棄型のライフスタイルだと言われかねないが、これは戦後米国から導入されたもので日本の伝統ではない。日本人の生き方は資源循環型にできており、CO2削減問題では、その伝統の力が問われる。

◆環境で原子力の役割

 もう一つ、この記事で不満なのは、CO2削減について、発電時にCO2を排出しない原子力エネルギーの効用について毛ほども言及されていないことだ。わが国は、昭和40年ごろから「資源論だけでなく、環境論も大事だ」と、核燃料サイクルの確立を目指した。「原子力の平和利用」とともに、世界に誇り得る政策の一つだ。米国は地球環境保護、CO2削減について現実的な施策を追求すべきだ。

(片上晴彦)