憲法改正論議で俎上に上げるべき家族条項に触れようとしない各紙
◆優しさと力の源泉に
お正月が過ぎると毎年、歌手の中島みゆきさんの『帰省』が心に響いてくる。
♪遠い国の客には笑われるけれど、押し合わなけりゃ街は 電車にも乗れないまるで人のすべてが敵というように肩を張り肘を張り 押しのけ合ってゆく
けれど年に2回 8月と1月人ははにかんで道を譲る 故郷(ふるさと)からの帰り束の間 人を信じたらもう半年がんばれる――
同感だ。そう頷(うなず)かれる方も多かろう。故郷では祖父母や父母の懐に戻り、友らと語り合った。それは束の間だったが、もう半年がんばれる。「家族」が優しさと力の源泉。正月と盆がそう教えてくれる。
その家族が憲法改正論議で俎上(そじょう)に上らないのはどうしたことか。各紙の憲法記事にもない。今年は改憲論議の年と言われるのにそもそも憲法を真正面から論じた社説は3本だけだ(~7日付)。
本紙4日付「未来を見据え『公論』を起こせ」、日経5日付「改憲論議は現実的な課題に即して」、東京5日付「首相年頭会見 改憲論議急ぐことなく」で、家族に論及したのは本紙1紙のみだった。
◆ドイツ基本法に明記
朝日の元旦社説「来たるべき民主主義 より長い時間軸の政治を」は、「『来たるべき世代に対する』国の責任を明記するのは、ドイツの憲法に当たる基本法だ。1994年の改正で、環境保護を国家の目標として掲げた」と説くが、家族には触れない。
だが、ドイツ基本法6条は「婚姻および家族は、国家秩序の特別の保護を受ける」と規定し、「子の監護および教育は、両親の自然的権利であり、かつ何よりも先に両親に課せられた義務である。その実行については、国家共同社会がこれを監視する」と明記している。リベラル派が大嫌いな「義務」が説かれ、国が「監視する」とまで言っている。それで朝日は黙殺か。
来たるべき世代は結婚と家族があって初めて存在する。子供を健全に育成するのは両親の義務だし、その家族を保護するのは国の役割だ。ドイツ人はそう自覚するから迷うことなく家族条項を基本法に明記したのだろう。
これに対して現行憲法は「すべて国民は、個人として尊重される」(13条)とするだけで、家族条項がない。それで自民党の改憲草案(2012年)は「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」(草案24条)とした。
ドイツ基本法よりもトーンははるかに穏やかだが、朝日や野党から集中砲火を浴びせられた。それに懲りてか、自民党は家族条項を言わなくなった。
なぜ家族条項は攻撃の的となってきたのか。日経元旦付の明治150年特集にそのヒントがある。戦前の「家父長制」を取り上げ「性別役割分担↓男女活躍社会へ」「『柔家族』のススメ」と家族の“構造改革”を唱え、戦前の家族が全て悪かったかのような印象を与えている。リベラル派は家族というと、イコール家父長制復活といった単純構造を描く傾向がある。
◆改憲派2紙も沈黙
朝日の場合は、もっとイデオロギー的だ。その教本というべき書籍が朝日の昨年10月22日付書評欄に紹介されていた。それは「『国家がなぜ家族に干渉するのか 法案・政策の背後にあるもの』(本田由紀・伊藤公雄編著=青弓社)。昨年1月に開催されたシンポジウムを基に編んだもので、自民党の改憲草案や家庭教育支援法案などをやり玉に挙げている。
その中にあった仏教大学教授の若尾典子氏の論には驚かされた。明治近代国家は国家暴力(軍事力)と、夫=父の家父長的暴力の二つの「暴力」で維持されていたとし、これを現行憲法9条と24条(家族における両性平等)が突破したと論じ、家族条項に真っ向から反対していたからだ。
われらの祖父や曾祖父はすべからく暴力主義者とされてしまっていた。これが事実なら、人は故郷からの帰りに、はにかんで道を譲ることはしないし、半年がんばろうとも思うまい。
それにしても改憲派の読売と産経が黙っているのは解せない。両紙は改憲試案で家族条項を盛り込んでいたはずだ。沈黙は敗北だ。家族条項を改憲論議の俎上に載せるべきだ。
(増 記代司)