複雑化する社会の中で医療の原点と時代劇の可能性示すNHK「赤ひげ」

◆船越の好演で見応え

 今年は小説家、山本周五郎の没後50年であることから、NHKは彼の不朽の名作『赤ひげ診療譚』を原作とする時代劇「赤ひげ」を放送中だ。連続8回のうち、1日(金)で5回を終えた。江戸の医療所「小石川養生所」を舞台にしながら、毎回現代にも通じる医療の原点を考えさせるとともに、「赤ひげ」こと新出(にいで)去定(きょじょう)役を演じる船越英一郎の好演もあって、なかなか見応えのある時代劇となっている。残り3回も楽しみだ。

 例えば、第1回は、幼い時に店の手代(てだい)に性的ないたずらをされて気鬱(きうつ)症になった大店(おおだな)の娘が登場する。原作では“色情狂”あるいは“殺人淫乱”と表現されているその娘は男2人を殺したほか、男1人に重傷を負わせて養生所に設けられた座敷牢に閉じ込められている。

 その娘の世話をするお杉と、長崎帰りの蘭学医である若い医師・保本登の間で、次のような会話が交わされる。

 お杉「人はどうして心を病んでしまうのでしょうか」

 保本「何かから逃げるためだ。体が逃げることができない時、心が逃げようとする」

 お杉「いっそ病んでしまえば楽なんでしょうか」

 そして、赤ひげは「子供の頃にいたずらされた娘は他にもいる。それでも、立派に生きている者はいる。では、あの娘は弱かったのか。それは違う。何が人を分けるのか。まだ分からないことはたくさんある。われわれはまだまだ無知だ。そして、無力だ。無知と貧困、こいつと闘っていくしかない」と、自分に言い聞かせるように語った。

◆座間事件と関連性も

 この場面を見て、筆者は神奈川県座間市のアパートから9遺体が発見された事件を連想した。男女関係が殺人事件につながっていることだけをもって、時代劇と現実の事件を結び付けることには飛躍があるように思えるかもしれないが、容疑者の異常性を考える上では、この時代劇は示唆を与えている。

 座間市の事件で、容疑者が9人を殺害していたなら、その遺体を自分の側に置いておくのは異常である。可能な限り遠くに遺体を隠し、遺体が発見されても自分と結び付けられることを避けるのが普通である。また、自分が殺害した人間の遺体が身近にあることは普通の精神構造では恐怖で耐えられないことでもある。

 こう考えると、責任能力は別として、容疑者の心はどこか異常であったことは間違いない。事件が快楽殺人との見方もある。そうすると、生い立ちまで遡(さかのぼ)って、なぜそうなったのかを探らなければ事件の解明はできないであろう。

 インターネット交流サイト(SNS)が普及するなど、社会が複雑化すればするほど人間の異常行動は、どこに原因があるのか分かりにくくなる。その点、時代劇は人間模様がシンプルなだけに、真実にたどり着きやすいのではないか。そこが時代劇の可能性でもあろう。

 大店の娘は、別の回で自殺を試みる。幸い、命は助かったが、自殺しようとしたのは正気に戻ったからというのが赤ひげの見立てだ。気が狂っていた時に犯した行為を自覚して耐えられなくなったからだという。そうなると、お杉の言ったように「いっそ病んでしまえば楽」ということになる。

◆医院はよろず相談所

 放送の2回目に、赤ひげが保本に「人の一生で、臨終ほど荘厳なものはない」と言って、患者に付き添わせる場面も印象的だった。超高齢社会になると、高齢の患者が多くなって、病気を治すだけでなく、いかに尊厳ある死を迎えさせることができるか、いかに看(み)取るかということも医療になってくる。かつての町医者はそうだったのである。

 筆者は最近、東京都内で開業する小児科医から、「病気を診るだけが医者ではない」という言葉を聞いた。地縁・血縁関係が薄くなった影響で、孤独に子育てする母親が増え、小児科医にはさまざまな相談が持ち込まれるのだという。ただ、その医師は「医院は昔からよろず相談所だった」という。「赤ひげ」も、病気を診るだけが医者ではないという精神で貫かれている。

 筆者がこの小説を読んだのは高校生の時だったが、時代劇化されたのを機に、読み返した。特異なエピソードや事件を扱いながら、無知と貧困にあえぐ弱者に心を寄せる山本の小説の神髄はいつになっても色あせないことを実感する。BSだけでなく、地上波でも放映してほしい時代劇である。

(森田清策)