今年下半期に来る「大波」と経済構造の転換を予測するエコノミスト

◆地政学的リスク増大

 このところ世界的に株価の下落が目立つ。8月上旬には2万円台を付けていた日経平均株価(2日の終値2万80・04円)も中旬以降では、18日には1万9470・41円と1万9500円台を割り込み、500円以上の下げ幅となった。この原因としては、北朝鮮がグアム周辺に向けてミサイル発射実験を遂行するかどうかをめぐって米国が「軍事制裁も辞さない」との態度を表明することで市場が反応したことによる。事実、日韓を含めた米国と北朝朝の緊張関係は朝鮮戦争以降、軍事衝突の可能性は最大になっている。

 こうした中で週刊エコノミストが8月15・22日号で今年下半期の経済予測を企画し、特集を組んだ。テーマは「世界経済17下半期 これから来る大波」。リードには、次のような文言が続く。「世界はいつの間にか霧が晴れ渡ったようだ。英国の欧州連合(EU)離脱やトランプ氏が当選した大統領選など政治イベントの余波も落ち着いた。今後、どう推移するのか、地政学などのリスクとともに展望する」。ここから分かるように、特集では欧米は落ち着きを取り戻したものの、北朝鮮や過激派組織「イスラム国」(IS)といった地政学的なリスクが存在しているため予断を許さない状態になっていると結論付ける。

◆打つ手ない対北朝鮮

 すなわち、北朝鮮に関しては、「国際社会からの制裁が強められようとも、核ミサイル開発は断念することはないだろう。…北朝鮮の核とミサイル実験を止められるのは米国だけである」(宮本悟・聖学院大学政治経済学部教授)とする一方で、米国に関しては、「米国にもほとんど選択肢は残されていない。米国が在韓米軍の撤退など北朝鮮の要求をのんで核開発をとりあえず凍結させるか、火星14号の実戦配備の前に軍事行動を起こすかぐらいであろう。いずれにしても国際社会を大きく動揺させることになる」(同)という。

 北朝鮮に関してはもはや、米国をはじめとして国際社会の打つ手はほとんど残されていないという見方が一般的になっており、ある自衛隊関係者は「北朝鮮が核保有国であることを前提とした外交、防衛政策を展開しなければならない時期に入っている」と述べている。少なくとも、最悪の事態を想定するというのであれば、米朝の軍事衝突の可能性は高いと捉えておく必要がある。

 もう一つ、地政学的リスクとして挙げているISに関して言えば、テロリストとしてのISが世界に拡散していると指摘する。現在、中東においてはイラクとシリアを中心にIS掃討作戦が繰り広げられている。イラクはISを追い詰めているが、シリアにおいてはロシア、中国が障害になり、完全制圧は難しい。その間、ISは「ローンウルフ(一匹狼)」によるテロ行為を世界に拡散させ、「さらなる液状攻撃に動いている」(福富満久・一橋大学教授)と分析する。

◆シェア経済が引き金

 同誌が特集を組んだ「これから来る大波」とは、この二つくらいのもので米国経済にしても日本経済にしても大きな波乱要素はなく、世界経済を決める3要素としている「中国」「資源価格」「ITサイクル」いずれも堅調で安定成長に向かっていると分析している。ただ、その中で注目すべき記事が、「シェア経済(エコノミー)」についてであった。

 シェア経済そのものは、それほど新しいものではなく、1948年にスイスで生まれたカーシェアリングが発祥といわれている。当時は、クルマが高価であったため1台の車を共同購入して使用するという形だったが、その後、環境問題や都市問題の解決のためにスイス政府が後押しして普及した。現在は、米国などで盛んになっているが、それは新しい製品を購入するのではなく、既存の資源を再活用していくところに比重が置かれている。

 日本ではカーシェアリングの他に民泊や自転車、駐車場などさまざまな分野に広がりを見せている。例えば、空いている個人の部屋を仲介業者に登録し、ニーズに合わせて貸す、あるいは泊まらせるというもの。これが可能になったのは、スマホの普及が大きいといわれているが、エコノミストでは、「新規の設備投資が抑制される可能性がある」(経済評論家の加谷珪一氏)とし、さらに経済のAI(人工知能)化が進むことで、「経済を成長させるためには従来ほど多くの資本を必要としなくなっている可能性が考えられる」(同)と説明する。

 すなわち、世界的に長期金利が上昇しない中で、量的金融緩和策の終了後も低金利が続くということは新しい経済メカニズムが働いているとも解釈でき、シェアエコノミーや経済のAI化が資本主義を前提とした経済構造の転換の引き金になっている可能性があるというのである。ポスト資本主義という言葉が頻繁に使われるようになったが、少なくとも、加谷氏の論文は、今こそパラダイムシフト(既存の前提からの革命的非連続的変化)の実情をしっかりと見詰めていかなければならないということを教えている。

(湯朝 肇)