西欧科学の可能性と限界を見るNW日本版「癌治療レボリューション」
◆異分野学者が癌研究
週刊誌の今週の自然科学に関する話題では、ニューズウィーク日本版8月8日号の「癌治療レボリューション」特集の中の「宇宙研究者が挑む癌のミステリー」がダントツ面白かった。
がん治療の在り方に一石を投じ、がんのメカニズムに関して大胆な仮説を提示したのは、宇宙の起源や地球外生命体についての研究で有名なポール・デービーズ米国アリゾナ州立大学(ASU)教授。
「癌は、複雑な生命体が登場する以前へと進化のプロセスを逆戻りする現象なのではないか」「癌になった細胞は、10億年前の地球に多く見られた単細胞生物のような状態に『先祖返り』する」というのがその仮説。
なぜ先祖返りするのかと言えば、「原始的状態に転換することにより、癌細胞は分裂のペースが速まり、絶え間ない外部からのプレッシャーに適応しやすくなる」つまり「セーフモード」としての“行動”だというのだ。
これまでがんは遺伝子に関わる病気とされ、異常や予想外の変異により発生するとされてきたのだから、デービーズのそれは真逆の考え方であり、逆転の発想だ。その上で「遺伝子の変異により正常に機能しなくなる情報伝達経路(中略)を狙い撃ちする分子標的薬が主流になっている」現在のがん治療に対し疑問を呈する。
「デービーズに言わせれば、分子標的療法という狭い領域に注目して資金を集中させている現状は、方向を誤っている。問題は、癌の弱みではなく強みを攻撃しようとしていることだ」と手厳しい。
そして「例えば、腫瘍に投与する薬の量を最小限にすれば、耐性の進化を防ぎ、癌が全身に広がることも抑えられるだろう」と、先祖返り説が、がん治療に新しいアプローチをもたらし得ると見ている。
◆学際研究盛んな米国
リポート記事によると、2009年以降、12の研究機関がアメリカ国立癌研究所(NCI)の助成を受けて、異分野からがん研究にアプローチし始めた。この助成対象として選ばれた中に、デービーズが関係する「ASU物理科学・癌生物学融合センター」の設立計画も含まれ、それをきっかけに本人もがん研究に取り組み始めた。先祖返り説の発見はその成果だという。
研究などが幾つかの異なる学問分野にまたがって関わる学際研究が、米国の強みだ。
またデービーズが問い掛けたのは「癌とは何か」「なぜ癌は存在するのか」。がんに正面から切り込むのは物理学の手法に堪能な学者ならではだ。
デービーズのように異分野でも活躍した学者のうち、日本人で思い起こすのは物理学者の寺田寅彦か。寺田はX線の回折現象についてノーベル賞級の発見をしたが、西洋の学者に数カ月早く同様の研究論文を発表されノーベル賞を逃した。その後、寺田は、金平糖や電車の混雑といった小さな具体性を語りながら異分野の研究も進め、生命の起源という大きな謎を暗示した。死後、寺田の晩年の研究は「小屋がけの物理学」だったなどと揶揄(やゆ)され、非難の声さえ起きた。
もちろん欧米でも、異説を唱える学者は、居心地がいいわけではない。実際、デービーズの研究に対して、記事では「興味を示す研究者もいるが、ばかげていると切って捨てる研究者のほうが多い」とある。が、日本と違うのは、その一方で、NCIのように「異分野の知見を癌研究に取り入れたい」とし、実際に予算を付け、その学者を引き上げる機関も存在することだ。
リポート記事の執筆はジェシカ・ワプナーという記者だが、デービーズの仮説の紹介とともに、米国の先進的な研究の在り方の例として、意識的にこの話題を取り上げているのが、心憎い。
◆人間の能力は万能か
また日本は、物質のさまざまな巨視的性質を微視的な観点から研究する「物性物理学」は得手だが、デービーズのように「癌とは何か」という根源的な問いから入っていく学者は案外少ない。哲学的な問答は公言しないという暗黙の了解だ。記事はその哲学の部分を前面に押し出した話の展開で、かえって素人にも読みやすい。がん研究の未来を変えるという知力を尽くした挑戦ぶりがうかがえる。
その一方で、大航海時代、ルネッサンスから始まった、人間の能力の万能性を前提にした西洋近代科学の方法論に、今や大きな壁が立っているのもほの見えてきて興味深い。
(片上晴彦)





