拉致40年、社会主義幻想で親北・反韓的「言論空間」を牽引した朝日

◆拉致報道に他紙黙殺

 北朝鮮による拉致被害者の家族会が結成されて3月25日で20年となった。拉致発生からは40年。産経は「拉致40年 家族の慟哭」(22日付~)、読売は「闘いの軌跡 拉致家族会20年」(24~26日付)の連載を組んでいる。

 拉致の存在を初めて報じたのは産経だった。1980年1月7日付1面トップに「アベック3組ナゾの蒸発 外国情報機関が関与? 戸籍入手が目的か」とスクープした。78年夏に蓮池薫さんらが拉致された事件だ。

 産経は連載でこう書く。

 「産経新聞は続報も打ったが後追いする報道はなかった。『誤報』『嘘記事』。社内外の批判が聞こえた。『間違いだったと思ったことは一度もない』。阿部は言い切るが、スクープは黙殺され、取材継続の機会を失った」(24日付)

 阿部とは当時、社会部記者で警察の警備・公安担当だった阿部雅美氏(後に編集局長)。スクープが認められたのは17年後の97年で、同年の新聞協会賞を受賞した。

 産経スクープの前年79年2月には木内信胤氏ら学者・文化人らが「スパイ防止法制定国民会議」を発足させており、他紙が黙殺してもスパイ防止法制定運動にとっては全国展開する契機となった。

 改めて想起したいのは、メディアの責任についてだ。メディアは50年代から60年代にかけて北朝鮮を「地上の楽園」と報じ、それを信じて帰国した在日朝鮮人とその日本人妻らが多数いた。

◆要請受け「共和国」に

 産経の黒田勝弘氏(ソウル駐在特別記者兼論説委員)は「ぼくも他のメディアと同じく『人道の船』とか『人道航路』とたたえて送り出した。今、考えると痛恨きわまりない。非人道を人道と伝えた、北朝鮮に対するこの錯誤、錯覚はどこからきたのだろうか」と自問している(産経09年12月19日付)。当時、黒田氏は共同通信記者だった。

 その最大の原因は社会主義幻想と反日・贖罪史観だと黒田氏は断じている。その筆頭は言うまでもなく朝日だ。朝日は71年9月、編集局長らが訪朝し日本のメディアで初めて金日成主席と会見した。この実現のため同年2月に在日朝鮮総連の要請を受け入れ北朝鮮の表記を「北朝鮮」とし、他紙もそれに倣った。

 ちなみに「北朝鮮」に戻したのは産経が92年、読売が99年だが、朝日は02年12月からで、30年間も「共和国」と呼び続けた。

 朝日に牽引(けんいん)された朝鮮半島報道は「南の韓国は“反共独裁国家”として顧みられず、否定的イメージばかりが流布された。北朝鮮=朝鮮総連のマスコミ情報工作も強力だった。当時の日本社会の朝鮮半島情勢は、朝鮮総連経由で流される親北・反韓的なものがほとんどだった」(黒田氏)。

 そういう「言論空間」の中で、「戦後日本の外事警察の最大の敗北」(山本鎮彦警備局長=当時)とされる事件が起こった。73年8月の山形県温海町の北朝鮮スパイ潜入事件だ。警察は工作員2人を逮捕したが、スパイ防止法がないので執行猶予付きの微罪に終わった。工作員は押収された無線機などのスパイ用具を「金日成閣下のものだから返せ」と主張、裁判所はこれを認めたので「万景峰号」に乗せて新潟港から堂々と帰った。これで北朝鮮は図に乗った。

◆社を挙げて法案潰し

 韓国政府は74年5月、「(過去20年間に)日本を経由して韓国に浸透し、検挙された北朝鮮のスパイは約220人に達している」として、日本政府に朝鮮総連の破壊活動を阻止するよう求めた(韓国外交文書=05年1月公表)。

 それでも日本政府は朝日の親北論調に気兼ねし動かなかった。その結果、74年8月に在日韓国人による朴正熙大統領夫妻銃撃事件(陸英修夫人死亡)が発生。77年11月に横田めぐみさんが拉致され、78年の一連の拉致に至った。

 こうした事件を受けてスパイ防止法制定運動が高まり、自民党は86年、スパイ防止法案を国会に上程したが、朝日は社を挙げてスパイ防止法潰しに乗り出し、86年11月25日付では紙面の半分を割いて反対特集を組んだ。同法案は未成立のままだ。そして今日、テロ等準備罪法案に反対している。朝日はちっとも変わっていないのだ。この報道姿勢も厳しく問われてしかるべきだ。

(増 記代司)