日弁連の「死刑廃止宣言」を手放しで評価し被害者側を軽視する朝日
◆罪と罰の基本的概念
紀元前のハンムラビ法典や旧約聖書には「目には目を 歯には歯を」とある。奪ったものと等しいものをもって償う。古来、罪と罰についての基本的な人間の概念だ。
最近、サウジアラビアで人を殺害した王子の死刑が執行されたニュースにお目にかかったが、これもそれに従ったものだろう。被害者遺族は死刑を求めない代わりに賠償金を受け取る「血の賠償」と呼ばれる金銭の申し出を拒否したという。
わが国では大正時代に「鈴ケ森お春殺し」という事件があった。お春の情夫が捕まり、死刑を宣告されたが、真犯人の石井藤吉は自分の犯した殺人のために無実の男が処刑される事態を黙っておれず、名乗り出て、一つの事件で2人が別々に起訴される前代未聞の裁判となった。
1審では彼の自供は裏付けられず無罪に。怒った彼は上訴し、控訴審では死刑となって刑場の露と消えた。大正7年8月17日のことだ。藤吉は手記にこう遺している。
「控訴審で私はまったく公正な裁判を受けることができました。それは無実の者を死刑から救ったばかりか、私の魂も救ってくれました」
この話は元検事で弁護士だった故・佐藤欣子さんに教わった(『お疲れさま日本国憲法』TBSブリタニカ)。奪った命は命をもって償う。それによって自らの魂も救われる。肉体のみで物事を考える人にとっては思いだにしないことかも知れない。
◆超少人数による採択
そんな死刑制度をめぐって日弁連が人権擁護大会で初めて死刑廃止を求める宣言を採択した。これについて産経は「廃止国増加も国際世論は8割『存続』 死刑廃止は『潮流』か 被害者側を軽視 日弁連に溝」(8日付)と懐疑的だ。日頃、「人権」にうるさい東京も「日弁連はどう説得する」(8日付社説)といささか弱気だ。
廃止宣言といっても、大会は委任状による議決権の代理行使を認めておらず、全弁護士3万7000人中、参加者は786人で賛成は546人。つまり全弁護士の1・4%ほどの超少数によるものだ。これでは誰もが疑問を抱こう。
何より不可解なのは産経が言うように被害者側を軽視していることだ。産経は「(宣言に)徹底的に欠落しているのは、死刑という究極の判断を導くもととなる、犯罪の冷酷さや深刻さ、被害者の苦しみ、社会に与えた損害と影響だ」(12日付社説)と指弾する。
その犯罪の冷酷さについて読売12日付「編集手帳」は大阪教育大付属池田小学校で8人の児童が凶刃の犠牲になった事件(01年)を取り上げ、こう記している。
「犯人の男に死刑判決が言い渡されたとき、遺族は『“8人の天使たち”の親の想い』と題する共同談話を発表している。一日も早い死刑執行を願う、と」
ところが、日弁連の大会に瀬戸内寂聴氏が「殺したがるばかどもと戦ってください」とのメッセージを寄せ、死刑廃止論者を激励したので驚かされた。かつて朝日は刑執行を命じた鳩山邦夫法相(当時)を「死に神」呼ばわりしたが(06年6月18日付夕刊「素粒子」)、それに続く暴言だと言ってよい。
◆「泣き閻魔」の心解せ
その朝日の9日付社説「死刑廃止宣言 日弁連が投じた一石」は「批判や反発、抵抗を覚悟のうえで、日本弁護士連合会が大きな一歩を踏みだした」と手放しで評価し、犯罪被害者支援に携わる弁護士らに「宣言をただ批判するのではなく、いまの支援策に何が欠けているのか、死刑廃止をめざすのであれば、どんな手当てが必要なのかを提起し、議論を深める力になることだ」と命令がましく言った。
これに対して弁護士らは「誤った知識及び偏った正義にもとづく一方的な主張」として公開質問状を朝日に送付し、2週間以内の回答を求めている(産経20日付)。瀬戸内氏は「殺したがるばかども」発言について朝日14日付エッセーで「バカは私」と謝罪したが、朝日はどう回答するだろうか。
佐藤欣子さんは「罪人を地獄の業火に落としながら、秋霜烈日(しゅうそうれつじつ)の目は憐憫にうるんでいる。しかし、罪人は業火によって更生できるのである。『泣き閻魔』こそ司法の理想」と語っている。朝日にも「泣き閻魔」の心を解してもらいたい。
(増 記代司)










