ノーベル文学賞受賞でボブ・ディランをべた褒めのNW日本語版特集
◆西洋文学の最高水準
「偉大なアメリカの歌の伝統に、新たな詩的表現を生み出した」―米国のミュージシャン、ボブ・ディランが今年度のノーベル文学賞を受賞した理由について、ノーベル財団はこう話したという。ニューズウィーク(NW)日本語版10月25日号は、この受賞を受け「ボブ・ディランの真価」のタイトルで、10ページの異例の長さで特集記事を載せている。それもべた褒めの内容だ。米国民には今回の文学賞受賞はよほど誇らしく、うれしかったのだろう。
米国人の科学系、経済学のノーベル受賞は毎年のようにあるから、国民も慣れっこになっているせいかもしれないが、当の学者を抱える大学当局の栄誉という次元の話としてもっぱら流布される。ところがボブ・ディランの文学賞受賞に対する反応は、明らかに違った。
 特集記事の
「(古代ギリシャの詩人)ホメロスの作品を文学と認めるなら、ディランの作品も文学だ。彼はアメリカ文学を新しい次元に引き上げた」「ディランといま肩を並べられる詩人を知らない」(詩人、アラン・シャピロ)。「フリップ・ロス(本紙注・現代のアメリカ文学を代表する小説家の一人)を差し置いての受賞に文句がある人もいるだろう。確かに、ロスはフォークナー以来最も偉大なアメリカ人作家かもしれないが、作家だけが文学者ではない」(ミュージシャン、T・ボーン・バーネット)など絶賛はかくのごとし。
また2004年、自伝を書いたディランにインタビューした過去の記事を再掲載し、リライトしている。その中で編集部は「一時期の『ディラン信仰』は並のファン心理を超えていた。60年代後半から70年代前半には神格化され、ストーカーに近いファンも出現した。『あんなことをされれば、誰でもおかしくなる』と、ディランは自伝に書いている」と改めて振り返っている。
◆米文化確認のよすが
当のディランは、今のところ沈黙を守っており、授賞式不参加うんぬんが取り沙汰されるが、参加しないとなれば、“神格化”の度が進みかねない。
戦後、米国文化が台頭し、世界に影響を与え、文化、生活様式についてリードしていった。それに陰りも見える今日この頃。今回のディランのノーベル文学賞受賞は、米国人の自負と自信、栄光を確認するよすがとなったようだ。
一方、今週号には、ディランの受賞について特集記事とは全く別な視点で書かれたコラムが、1ページ分載っている。これが興味深い。10ページの絶賛記事に対しガス抜きの感が強いが、その内容は核心を突いているように思う。
「ボブ・ディランの歌詞はノーベル賞に値せず」という批評家、スティーブン・メトカフのコラムがそれ。「ディランはミュージシャンだ。詩人ではない。ディランの歌の歌詞は、音楽なしでは物足りない。詩と歌詞は似て非なるもの」と断じている。
「文学とは静かに自分に向けて読むものだ。静寂と孤独は読書と不可分の関係にある。読書こそ文学に向かう唯一の道である」と。
◆言葉羅列で味気ない
ディランは、大衆の否定的な感情、ある種の真実などもろもろの欲求をすくい上げ、ロックの中に放り込み人々を陶酔させた。本人が意識するかしないかは別として、それに政治が絡められ、人々の情熱を一方向に引っ張り、拡大していく手法は、1960年代の米国で絶頂を迎え、世界に広がっていった。日本でも政治運動の中に採用され影響を強めた。この種のポピュラー音楽流行の柱の一つとしてあったのがボブ・ディランその人だった。
確かに、『風に吹かれて』や(筆者の好きな)『北国の少女』一つとっても、歌詞だけを抜き出して見てみると、くだんのメトカフによるコラムが言うように、言葉の羅列で味気がない。
そのメトカフは「文学賞を経済学者や政治家に与えないのなら、ボブ・ディランにも与えるべきではない」と結論付けている。しかり、である。
(片上晴彦)










