中日の捏造記事が浮き彫りにした企画ありきの「貧困モノ」の危うさ

◆作り出された「逸脱」

 「犬が人間をかんでもニュースにならないが、人間が犬をかめばニュースになる」。一昔前にはこんなニュースの定義があった。今では犬が人間をかめば、立派なニュースだが、ある時代まではごくありふれた話で、その逆は(今もそうだが)、聞いたことがない。だからニュースで、そんな「逸脱」を当てにしてマスメディアは活動している。

 それで新聞や週刊誌の見出しには逸脱行動が溢れている。殺人、暴行、不正、スキャンダル…、これこそ格好のネタだ。報道すべき逸脱が見当たらないときは、作り出す必要すら感じてしまう。かくして捏造(ねつぞう)記事が生まれる――。藤竹暁・学習院大学名誉教授の指摘である(『マスメディアと現代』放送大学教育振興会)。

 中日新聞の記者も作り出す必要を感じたのだろう。同紙と東京に連載されている「新貧乏物語 子どもたちのSOS」に捏造記事があった。両紙12日付「おわび」によると、5月19日付(東京は6月21日付)に掲載された、病気の父親を持つ中学3年生の少女の記事で、「教材費や部活の合宿代も払えない」などとの記述は事実でなかった。

 また中日5月17日付のパンを売り歩く10歳の少年の記事に添えられている写真に「知らない人が住むマンションを訪ね歩く」との説明が付いていたが、実際は販売現場でなく少年の関係者の自宅前だった。

 8月末に少女の家族からの指摘で調査したところ、取材班の1人の記者が架空の取材メモを作成し、写真撮影もカメラマンに指示したことが分かった。記者は「原稿を良くするために想像して書いてしまった」と話しているという。つまり作り出したわけだ。

◆架空メモ作成の動機

 メディアの貧困モノの危うさを浮き彫りにする一件である。8月にはNHKの「子どもの貧困」番組に捏造疑惑が生じた。沖縄タイムスは今年の元旦号で「刻まれた飢え 孤独/15歳 公園で1年生活」との衝撃的な見出しを掲げ、「ここにいるよ 沖縄 子どもの貧困」の連載を始めたが、ここにいるよと言っても24年も前の話だった(本紙4月8日付「沖縄時評」筆者)。

 真実とは無縁の「貧困」記事については9月に本欄で扱ったばかりで、またぞろ、の感がする。折しも新聞週間の最中で、その標語の傑作に「声なき声 拾い集めて 光る記事」とあるが、思わず「声なき声 作りだして 捏造記事」と言い換えたくなった。

 「架空の取材メモ」といえば、朝日もやった。長野総局の記者が05年8月に田中康夫知事(当時)との架空の取材メモを作成し、それを基に朝日は同氏が新党結成を目指しているとの虚偽記事を載せた(同年8月21日付)。

 この記者は社内調査に対して「功名心から」と答えていたが、後に「『功名心』という説明は自分や周囲を納得させるための言葉で、本心ではなかった」と話しており、取材の怠慢を隠すための架空メモだったようだ。

 さらに遡れば、朝日には伊藤律架空会見記事がある。1950年にレッドパージで地下潜行中の共産党幹部、伊藤律と兵庫県宝塚市の山林で会見に成功したとして一問一答を載せた(同年9月27日付夕刊)。伊藤本人が「吹き出してしまった」と述懐している迫真の架空会見で、動機は特ダネへの「功名心」だった。

◆レッテル貼りと同根

 では、中日記者はどうか。「原稿を良くするために想像して書いてしまった」というが、「良くする」とはこの記者にとって何だったのか。新聞倫理綱領に「記者の任務は真実の追究である」とあるように良い記事とは真実の追究にほかならない。だが、中日記者は逆にでっち上げた。

 それにもかかわらず、「良くする」と言えたのは、初めに「新貧乏物語」の企画があり、その目的達成のための“取材”だったからに違いない。想像してでも記事を作り出さねば、企画がおじゃんになる。そんな無言の圧力があったとすれば、一記者でなく、中日(東京)の社全体の問題だ。

 藤竹氏によれば、メディアは「注目の枠組み」を作って世論誘導を図る「ラベリング作用」を持つ。それは時として恣意的になり、捏造や偏向を生み出す。同紙は安保関連法に「戦争法」のレッテルを貼り続けているが、今回の捏造記事は根が同じだ。

(増 記代司)