権利ばかりを言い立て「義務と責任」語らぬ成人年齢引き下げ論議

◆五輪に徳育への期待

 リオ五輪を通じて、改めて近代オリンピックの父、ピエール・ド・クーベルタンに思いをはせた。

 クーベルタンは1863年、フランスに生まれた。少年期に普仏戦争(対プロシア戦)に敗れ、国民は意気消沈し青少年は希望を失っていた。そんな時、英国に渡ったクーベルタンが目にしたのはイートン校やハーロー校などのパブリックスクール(寄宿舎制の私立中学)のスポーツ教育だ。

 クリケットやフットボールなどを単なる遊びではなく、統率力や公共の精神、信仰などを培う徳育の手段として取り組んでいた。同校を描いた『トム・ブラウンの学校生活』(岩波文庫)にはロンドンの旅館でラグビーに向かう息子に語った父親のこんな言葉が記されている。

 「勇敢で、役に立つ、嘘をつかないイギリス人になり、紳士になり、キリスト教徒になってくれさえすれば、他に望むことはない」

 クーベルタンはこうしたパブリックスクールのスポーツ教育を五輪精神へと昇華させ、「選手たちは肉体を鍛える務めを果たすのみならず、道徳教育、社会平和の促進にも一役買うことができる」と述べている(マカルーン著『オリンピックと近代 評伝クーベルタン』平凡社)。

 スポーツをもって精神を鍛錬し、立派な成人になる。五輪には青少年の道徳教育への期待もあったわけだ。

◆引き下げ理由触れず

 さて、その成人についてである。法務省は成人年齢を18歳に引き下げる民法改正案を来年の通常国会に提出する方針を固め、意見を公募している(各紙2日付)。成立すれば、3年間周知期間を見込み、早ければ2020年にも18歳成人となる。

 先の参院選から投票権が18歳にまで下げられ、18歳成人は既成事実であるかのようだが、それでいいのか。意見を公募しているのに新聞論議は極めて低調だ。

 社説で扱ったのは全国紙では産経1紙のみ。それも「正式に『大人』と認めよう」(8月29日付)と18歳成人に積極的で、飲酒、喫煙、少年法をはじめ「その他の基準も合わせるべきではないか。成人年齢に複数の種類があるのは望ましくない」と前のめりだ。

 地方紙では中国新聞が「拙速に進めてはならぬ」(5日付社説)と慎重だ。影響を受ける法律が200本を超え、少年の更生や消費者保護などの視点も欠かせないとし、共同通信の世論調査では18、19歳の68%が成人年齢の引き下げに反対だとしている。

 だが、積極派も慎重派も大人としての「義務と責任」を語らない。毎日1面コラム「余禄」(2日付)は、明治期の欧米の成人年齢は21~25歳で、日本の20歳よりも高かったが、今日では18歳成人が世界の主流だとし、「参政権のある者が市民の権利を持たぬのもおかしい」と、「権利」をもって18歳成人に賛成する。

 毎日2日付の「変わる大人の定義」は、「米国は州によって異なるが大半は18歳。英仏独3国は1960年代から70年代にかけ21歳から18歳になった。中国は18歳で、韓国は13年、20歳から19歳に引き下げられた」と解説するが、なぜ引き下げられたのか、その理由には触れない。

◆「責任」が大人の条件

 むろん毎日は知らないわけでない。かつて18歳成人が論議された際、欧州がもともと21歳成人だったが、それは「重い武具を着けられる」年齢だったとしていた(09年7月30日付)。

 米国も21歳だったが、70年代にベトナム戦争の徴兵制と関連し「18歳で徴兵されるのなら、選挙権もないとおかしい」との議論が起こり、多くの州が18歳成人にした。70年代に学生運動が高まり「若者からの要望」で引き下げられたのだ。アフリカなど新興国の18歳成人も大半が徴兵年齢に由来する。

 国を守るのはどの国でも成人の最も神聖な義務で、これは世界の常識と言ってよい。クーベルタンの見たパブリックスクールの卒業生の多くも軍人となり、大英帝国傘下の世界各地に赴いた。そこまで言わないまでも、せめて自分のしたことに責任を持つのが大人になる条件だろう。

 新聞は権利ばかりを言い立てるのが大人とでも言うのだろうか。それは古来、大人ではなく小人(しょうじん)のことだ。

(増 記代司)