東京の都市機能の掘り下げ必要だったNW日本版「東京五輪への期待」

◆東京の機能は驚異的

 リオ五輪の終了を待ってましたとばかり、「ニューズウィーク日本版」(8月30日号)が、「TOKYO in 2020 世界は4年後の東京に何を期待しているか」と題した特集記事を載せている。その中で、東京在住の外国人記者や識者らが自ら体験して得た東京観を披露し、4年後の五輪開催に期待を込めている。

 巻頭「ダイナミックに整然とメガ都市が奏でる交響曲」(コラムニスト、アフシン・モラビ)のタイトルの一文では、「外国人観光客は東京の秩序正しさに目を見張る。1360万人がひしめく大都会がこれほど円滑に機能するのは、驚異的なことなのだ。東京の日常は、いわば指揮者のタクトに合わせて奏でられるシンフォニー。電車はダイヤどおりに運行し、車は車線を守り、歩行者の群れは整然と歩道を進む。迷路のような路地裏にひっそりとたたずむ喫茶店やバーで人々は一息入れる」と。

 「長年東京に住んでいる人には当たり前の風景だろうが、これほど滑らかにリズムを刻む大都市はどこを探してもない」「今の繁栄を維持し続ける限り、4年後のオリンピックでは世界中の人々が東京の底力を再発見する」と、続けている。

 また、他のコラム「『安全』という贅沢品が中国人を引き付ける」(陳言、北京在住ジャーナリスト)の「『東京にまがい物なし』。これも、大勢の中国人が東京で買い物三昧を楽しむ重要な理由の1つだ」の指摘や、「客への敬意が感じられるハズレなしの美食都市」(クリストファー・ペレグリニ、早稲田大学講師)の「高級店でなくても、料理の細部までの気配りと、お客に対する敬意が感じられるのもうれしい」と。

 特に、新しい視点ではないが、洗練され統一された都市機能についての最大級の礼賛はありがたくもあり、外国人の記者の東京という街への強い思い入れに恐れ入る。

 ただし、言ってみれば、これらは都市の見栄え、外面であって、そもそも今の東京は、日本人や東京の人たちの内面的なことがどう作用した結果の街なのかの言及はない。記事にそこまで望むのは無理であろうか。

◆雑多の中の“親和力”

 実は東京が生まれてから、名の付く「都市計画」がまともに実を結んだためしがない。関東大震災直後、東京市長の後藤新平が、復興のため100㍍道路の建設など大都市計画をぶち上げた。しかし彼の剛腕、政界人脈によってしても、100㍍道路はもとより、人工的な都市改造は日の目を見なかった。今、銀座の街を貫く昭和通りにその名残をとどめるにすぎない。その顛末(てんまつ)は作家・杉森久英の『大風呂敷』に詳しい。

 これは、さかのぼること徳川時代の江戸城と市中の図面の中身を見ても分かる。江戸は既に軍事都市を脱していたから、市中は、人々が自然に集まり膨張するに任せるほどだった。都市計画の代わりに庶民が培ってきた“雑多さの中の親和力”が都市を作り上げる伝統は、江戸時代に培われた。この巨大都市は、人工的な都市改造になじまない、自由、伸び放題が性に合っている街と言うべきか。

 じゃあ、1964年の東京オリンピック前後に高速道路が敷かれ、その槌音(つちおと)が聞かれたのはどうか。これは都市計画というより、当時、爆発的に増えた車両の流れをさばくための道路行政の範疇(はんちゅう)と見なせよう。

 くだんのニューズウィークのコラムの中に「にぎやかな商店街や迷路のような歓楽街、軽自動車しか通れない曲がりくねった裏通りは東京の宝だ。それに比べ、東京スカイツリーや六本木ヒルズなどの観光スポットはどこも退屈だ」(経済評論家、ピーター・タスカ「活気あるアメーバ都市はネオンの夢を見続ける」)という指摘があるのは示唆的で、やはり外国人も、日本人の伝統の力をうすうす感じているのかもしれない。

◆自然体でアピールを

 一方、今回、リオ五輪の会場の内外のありさまを見ても、現地の人たちの飾らぬ自然体の対応こそ、結局、リオという街を広く世界に知らす力になった。この事実は、次の五輪の教訓として押さえておきたい。

 東京は、最近、外国人の生活者が急増し、都市生活の複雑さが加わった。これらの難題を解決できるのか、どうか。東京が抱える大きな問題の一つだが、そういう中で迎える2020年東京五輪。したたかさと自然体の日本人の姿を見せたいと思う。

(片上晴彦)