「子供の貧困」に支援は必要だが「家族の価値」を言わない朝毎の欠落
◆自己責任軽んじるな
原因があって結果がある。その関係(因果性)については古代ギリシャのアリストテレスを始め、多くの学者たちの探求の的だった。現代成功哲学の祖として知られる英国の作家、ジェームズ・アレンによれば、「私たちがこれまで考えてきたこと(原因)が、私たちを、いまの環境(結果)に運んできた」(『「原因」と「結果」の法則』サンマーク出版)。
何事も因果性、つまり原因を考えなければ、問題解決の糸口が見つからない。アレンはそう言いたいのだろう。では、「子供の貧困」はどうか。
ここ数年、毎日や朝日、沖縄紙(沖縄タイムス・琉球新報)などは盛んに「子供の貧困」を取り上げてきた。自由主義経済の下で貧富の格差が広がり、子供の貧困が深刻だからだという。自由主義批判の格好の材料のようだ。
5日のこどもの日の毎日社説は「こどもの日 助けての声が聞こえる」の見出しを掲げ、朝日社説には「子どもの貧困 学び支え、連鎖断ち切ろう」とある。いずれも子供の貧困の深刻さを訴える。
その上で毎日は「政府の対策が遅れてきたのは、親の養育責任を重視する考えが根強いからでもある」、朝日は「単純な『自己責任論』から卒業する時だ」とし、貧困対策を「国政の最優先課題に」(毎日)、「社会保障と教育を両輪に、対策を充実させたい」(朝日)と主張する。
確かに「助けて」の声は聞こえてくるし、学びを支え貧困の連鎖を断ち切りたい。今ある貧困に対して国の支援は必要だろう。だが、「親の養育責任」や「自己責任」はそれほど軽んじられていいものか。貧困の原因がどこにあるのかを両紙は真剣に掘り下げたように思われない。
子供の貧困には少なからず親の養育責任の放棄がある。自己責任を果たさない親もいる。国民に責任を問うのは自由を保障しているからにほかならない。自由つまり裁量権を持つから、選択した行為に責任が伴う。それが失われれば、社会主義社会だ。
◆貧困原因に性の乱れ
沖縄紙を見てみよう。両紙は大学教授の研究結果や県の独自調査などを基に、沖縄の子供の貧困率が全国平均の2倍以上の全国最悪だとし、あたかも「沖縄差別」の所産であるかのように書いた。
だが、貧困の子供たちを取材しながら、高貧困率の原因について明瞭な答えを出さなかった。筆者はこれを本紙4月8日付「沖縄時評」で批判し、貧困の原因を探った。
すると、沖縄では10代の出産割合が全国平均の2倍、シングルマザーが多く、婚外子も全国平均の2倍、その婚外子の母親の3人に1人が未成年者だった。加えて離婚率は全国1位。
貧困の底流には「性の乱れ」「DV(暴力)」「ネグレクト(虐待)」などの「家族崩壊現象」が見て取れた。性と結婚、家族の価値が軽んじられた結果、子供が貧困にさらされていると断じてよい。
だから子供の貧困を解消する最も有効な施策は「家族の価値」を取り戻すことだ。ところが沖縄紙はこれに触れない。「家族の価値」と言えば、安倍路線の容認につながると考えているからか。毎日と朝日も「個人」ばかりを強調し「家族」を軽視する(例えば朝日4月19日付『憲法を考える 自民改憲草案』家族㊤)。
◆鷹山の「三助」精神を
本紙の早川俊行ワシントン特派員は昨年11月6日付に、安定した家庭は個人レベルのみならず、マクロレベルでも大きな経済的利益をもたらすとの大手シンクタンクの研究結果を報じている。専門家は経済成長の観点からも「家庭再建」を重要政策に位置付けるべきだと提言している。こういう施策こそ今の日本に必要だろう。
わが国では、かつて米沢藩主となった上杉鷹山は「民の父母」と自覚し、「三助」を基本方針に据えた。三助とは自ら助ける「自助」、近隣社会が互いに助け合う「互助」、そして藩政府が援助する「扶助」で今日に通じる福祉政策だ。自助は家族を基盤とする。それを無視し、いきなり「扶助」では社会は成り立たない。
アレンは「不幸せの原因は、他の誰かの身勝手ではなく、自分自身の身勝手である」とも述べている。自分自身に家族を含めておけば、子供の貧困の実態がほぼ知れよう。左派紙にはこの因果性の視点が欠落している。
(増 記代司)





