社会党“終焉”を扱った「ニッポンの過去問」で見える万年野党の原因
◆20年で民主も新党へ
安保法制廃止を叫び、共産党とも手を組む昨年来の民主党はかつての社会党に似てきた、と考えられるところ「日本社会党“終焉”」というタイトルの番組が目にとまった。11日深夜のTBS「上田晋也のニッポンの過去問」という情報バラエティー番組で、日本社会党からの党名改称から20年のタイミングに取り上げたものだ。
番組は、1996年1月19日に「社会民主党」に党名変更した「その名の終止符」をもって社会党の“終焉”と捉えている。実際は、同年衆院選で大量の離党組が民主党結成に加わったことが致命的だったが、番組は民主党については触れていない。が、民主党も間もなく3月に維新の党と合流して党名を変え新党になる方向だ。同番組流の解釈ならば「その名の終止符」をもって「2016年3月の民主党“終焉”」も言い得るだろう。社会党“終焉”の当時は冷戦後の世界情勢の激変期で、創造的破壊といった政界再編成への期待があったが、当時を振り返る「過去問」が野党の「明日の姿が見えてくる」鍵となるかどうか―。
TBS解説員の龍崎孝氏は、「現在は社会民主党と名前を変えて存続しているが、かつてのような政界に対するインパクトとはかなり差がある。そうなったのには、それなりの理由があることをひもときたい」と、「問題」を設定していた。
確かに社民党は、今月の党大会(20~21日)では結党20年、共産党を含む野党5党首が結集したことで若干の注目を集めたものの、参院選の目標もわずか「3議席」であり、存亡の行方について報道の焦点を当てられることが多い。戦後昭和の社会党とは隔世の感がある。
◆政策の是非は問わず
番組では、45年の結党、社会党左派右派の決裂と護憲・反安保を掲げての55年の左右統一、これに対する憲法改正・安保保持を掲げて保守合同した自民党との自社55年体制の戦後政治、自民党実力者の汚職追及、土井たか子委員長時代のマドンナ旋風により89年参院選で自民党過半数割れを起こし、93年からの細川護熙連立政権、94年からの村山富市自社連立政権で与党となるなど社会党の印象的場面をザッと放映した。一種のノスタルジー番組である。
龍崎氏は55年体制について、与党・自民党と野党・社会党で二分する二大政党の形が「だんだん選挙をやっていくと……二大政党制が『1と2分の1政党制』となって社会党が万年野党に甘んじていき、1(自民党)と2分の1(社会党)がなれ合っていく」などの説明で、話は国対政治に進んだ。
その前の55年体制について「政権交代も憲法改正もない時代」とのナレーションがあったが、これは結局、今日の安保法制にまで長い影を落としたと言えるだろう。社会党は「護憲」の音頭をとって自民党3分の2議席阻止に奔走し、実際、自民党は3分の2には届かなかった。このため、憲法9条が絡む安保事案の法整備に政府・自民党は憲法解釈で対応してきた。
また、番組は89年参院選を社会党の「悲劇の始まり」として、大勝の後の後退に触れた。これについては、社会党が候補者擁立を怠った半面、自民党は積極的に候補者を擁立する派閥があったというのが龍崎氏の見方だ。
この点は、イデオロギー、政策の是非には触れない番組のスタンスだろうか。自衛隊を海外派遣する国連平和維持活動(PKO)協力法に「議員総辞職」や牛歩戦術で時代錯誤を印象づけたこともあったが…。非現実的な安保政策も審判されたのだ。
◆民主党に当てはまる
龍崎氏がひもとく社会党“終焉”の理由は、①日本が変わった②イデオロギーの変更③小沢一郎氏、の三つだった。番組の時間的制限もあり大つかみに要約したと思われるが、②は社会党の選挙基盤の労働組合(総評)の組織率の低下、①は村山首相の日米安保条約肯定、自衛隊合憲の表明、③は曰く「小沢一郎さんが憎かったんじゃないですかね」との感情要因。細川連立政権後の羽田連立政権での連立離脱、そして自民党との連立に社会党を突き動かしたキーマンである。
これらは意外と民主党にも当てはまるものだ。まず政権を取ってから凋落(ちょうらく)したこと。その際、①の場合は民主党政権の外交安保政策の危うさから日本の多くの有権者が危機感を持ち保守化、②の場合は実行できなかった政権公約(マニフェスト)や公約にない消費増税、③の場合はまさに同人物が党分裂をもたらした。果たして、今度の新党が万年野党にならないための「過去問」となるかどうか。
(窪田伸雄)





