野党結集に共産混ぜた「多様性」を旗印に勧める朝日社説の政策無視

◆反安保法デモに迎合

 朝日が面白いことを言っている。「与党が『安倍一色』ならば、(野党は)これを逆手に『多様性』を旗印とする。そんなしたたかさがあっていい」と(12日付社説)。

 タイトルには「野党の結集 多様性こそ力に」とある。面白いというのは、気持ちが晴れるとか、心が引かれるといった意味ではむろんない。「滑稽だ」の面白いである。

 朝日が言うには、「(反安保法で)多くの国民が、各地で集会やデモに集まった。そうした新たな民意の受け皿を用意する責任が野党にはある」。ひとつは民主党と維新の党を軸にする野党再編、もうひとつは共産党の提唱する「国民連合政府」構想。ともに実現には壁があるが、「ここは自民、公明の与党体制に代わりうる政権の選択肢づくりを掲げ、大きな目的に向け結集を図るべきだ」としている。

 滑稽なのは、政策が異なっていても、それを逆手にとって「多様性」を掲げ、なりふり構わず安倍政権を打倒せよと主張しているところだ。政策もマニフェストもどうでもよいのだ。さすがに「政策が異なる党の結集には、『野合』批判もあろう」と述べているところを見ると、「野合」の自覚はあるらしい。が、それでも野党結集だ。

 朝日にとって政党とは何なのだろう。英国の政治思想家エドマンド・バークは、政策、綱領、主張が政党の生命だとし、それに基づいて「国民的利益」を増進するのが政党と定義している。それがなければ「徒党」にすぎないとも言う。徒党が闊歩すれば、議会制は成り立たず、民主主義が滅んでしまうとバークは警鐘を鳴らすが、あろうことか朝日はその徒党政治を勧めているのだ。

 議会に「多様性」(違い)を持ち込み、それを「力」にせよ? これは何を意味するのか。議会は多様性を克服し、意見を集約する場だ。にもかかわらず多様性を力にすれば、それこそ「決められない政治」に陥る。政治の機能は「社会の統合」にあるから、その機能不全を図ろうとする朝日は「社会の壊し屋」ということになりはしないか。

◆「中和」説く日経特集

 日経の芹川洋一・論説委員長も面白いことを言っている。こちらの面白いは興味深いという意味だが、新聞週間にちなんだ企画特集(12日付)で、安保関連法を巡って「新聞は2つに割れた」とし、「極論中和し世論創る」と論じている。

 芹川氏は全国紙5紙の報道姿勢を取り上げ、「新聞をはじめメディアが論調で、主張を抑えた客観報道でなく、自らの意見を前面に押し出した紙面や番組をつくる傾向が強まっている」と指摘し、法制を評価した読売、産経、日経と、反対した朝日、毎日の「二極化現象は国民的な合意形成をむずかしくするだけでなく、極論が極論を呼ぶ危うさをはらんでいる」としている。

 主張論調が強まっている理由として「安倍1強」の政治状況への不満と、賛成・反対が鮮明なネットの言論空間の影響、若者を中心とした深刻な活字離れの3つを挙げる。

 とりわけ活字離れに対して「(新聞で)まず大事なのはコア読者の囲い込みだ。それには思想信条を同じくする層に向けて発信するのが効果的だ。同好の士が共感する紙面づくりである。一般紙のスポーツ新聞化が進んでいるといった指摘もあながち的外れではない」と述べている。

 論調で競うのはおかしなことでないが、事実認識があまりに違ってくる結果、特定の新聞だけしか読んでいない人では見える世界が異なっている。それで議論が成立しなくなり、「政治に合意形成への努力を求めてもその前提が崩れていてははじまらない」と憂いている。

 そこで芹川氏は2・26事件直後、石橋湛山が反省を込めて書いた東洋経済新報の社説の一節、「言論機関の任務は、極端なる議論に対して中和性を与え、大衆に健全なる輿論の存在を知らしむる点に存する」を紹介する。

◆政治に政策抜く極論

 名指しはないが、コア読者の囲い込みに最も熱心なのは朝日だ。事実認識があまりにも違っているのも、政策抜きの野党結集という極論も朝日だ。芹川氏の指摘はそうした主張論調を強める朝日への忠告とも読める。が、左にいれば真ん中も右に見える。果たして朝日に「中和」は通じるだろうか。

(増 記代司)