技術不信克服の必要性も指摘すべきだった週刊現代の「巻頭特集」

◆人を欺く手口にあ然

 今では日本製も負けてはいないが、30年ほど前、筆者の仕事に無縁でなかった印刷機では、ドイツのハイデルベルク製が群を抜いて優れた印刷技術を持っていて、高価だが、国内でも需要が多かった。一事が万事、機械類ではドイツ製が信用できる、という認識は、この間、決して的外れではなかったと思う。それが、その信を一挙に失いかねないドイツ自動車大手フォルクスワーゲン(VW)の大掛かりな不正の発覚である。

 ドイツ通信によると「米国での排ガス規制を正当にクリアする技術の開発は費用がかさむことから断念し、排ガス浄化機能を不正に操作するソフトウエアを使うことにした」という。人の目を欺く大胆な手口にはあ然とさせられる。

 ドイツ人は理非の分別をわきまえた知性の塊のような人たち…などと、遠目からではあるが、行ってきた判断は誤りだったのか。週刊現代10月17日号巻頭特集の「VW事件で地に墜ちた『EUの盟主』それ見たことか、ドイツ人あっけない転落」。おどろおどろしい見出しが、目に留まった。

 その中で、ドイツ在住作家・川口マーン惠美さんは「ドイツ人のイメージといえば、真面目で、勤勉。おそらく昔はそうだったのでしょう。これが今でも定説のように語られていますが、現在のドイツ人は休暇が大好きで、病欠も多い」。そういった背景を持つ「不正事件」だという。

◆不正自覚なかった?

 VW社の内部に何があったのか。川口さんは次のように続ける。

 「燃費が良くて、パワーがあって、なおかつ環境によい。そんなディーゼルエンジンを作り上げ、世界中で大儲けしたいという野望があったことは間違いありません。フォルクスワーゲンの経営陣にとっては、心がくすぐられるチャレンジに映ったのでしょう。

 実際には、なかなかそんな夢のようなディーゼルエンジンは開発できない。しかし、自分たちにはできるはず。そう思っているうちに魔が差した? 要は、ばれなければ良い……。

 もし、彼らがこんな考えにとらわれていたのだとしたら、何かが狂ってしまっていたとしか思えません。おそらく不正をしていたという自覚もなかったのではないでしょうか。これは傲慢なことです。」

 なるほど、説得力のある推理だと思う。ドイツの民間伝承に「ハーメルンの笛吹き男」というのがある。笛吹きの笛の音色に多くの少年少女が次々と同調し、洞窟の中に誘い入れられ、二度と戻って来なかったという話で、グリム童話にもなっている。今回の不正問題は会社版「ハーメルン…」と言えそうで、社内外のだれもが不正の自覚すらなく、その事態が進行していったのかもしれない。

 「『ドイツ帝国』が世界を破滅させる」の著者でフランス国立人口学研究所研究員のエマニュエル・トッド氏のコメントはもっと手厳しい。

 「真に問題と考えるのは」として「諸問題を単にテクニカル(技術的)な問題として扱い、モラル(道徳)の面を忘れてしまうという古くからのドイツの傾向です。(中略)知っての通り、この種の『中身のない合理性』は、それ自体が危険なのです」と。

 たいていの技術には流行(はや)り廃りがあり、技術開発の方向性の決断が間違えば、どのメーカーも思わぬ事態に直面する可能性がある。しかしその中で、困難に屈し不正を働く企業には、根底に技術を所有しているというおごり、傲慢さが根強く横たわっている場合が多い。2人の識者が指摘する通りである。

◆技術本質見えにくい

 一方、同記事に指摘はないが、今回の問題は単に一企業への不信にとどまらず、19世紀の産業革命から急速に発展し、現代社会を支えている科学技術全般に対して人々が不信感を募らせないか。

 自動車の技術も長足の進歩を遂げてきたが、複雑な技術(機械)そのものは工業デザイナーによって美しい覆いをかけられ、その快適さ、便利さだけを享受することのできる機械として人々に提供されてきた。それを逆手にとり、人々を欺いたわけで、技術に対する不信払拭には相当の手だてが必要となるだろう。

 今日、技術の恩恵を受ければ受けるほど、技術の本質が見えにくくなっている。技術不信の根もそこにあるような気がする。技術の機能だけでなく、技術そのものの意味を真剣に考える時である。

(片上晴彦)