マルクス主義的な国家悪論に凝り固まった朝日社説の個人主義礼賛
◆戦後70年に首相批判
フランスの政治思想家トクヴィルは1830年代の米国を訪ね、『アメリカの民主政治』という名著を遺(のこ)した。
当時の米国は孤児出身の大衆政治家ジャクソンが第7代大統領に就き、大衆的民主主義を謳歌(おうか)していた時代だが、トクヴィルはその米国に民主主義の病理を発見する。そのひとつが個人主義だった。
民主主義国では文化的啓蒙(けいもう)と自由放任とが与えられ、生活は一層快適で安楽、甘美なものになり、皮肉にも人々は高貴な能力を用いることができなくなり自ら堕落してしまうと、トクヴィルは語る。
「個人主義は、初めはただ公徳の源泉を涸(か)らすのである。しかし最後には、他のすべてのものを攻撃し、破壊し、そしてついには利己主義のうちに呑み込まれるようになる」(講談社学術文庫)。
だから米国では利己主義に陥らないように、為政者はしばしば国民に問うた、「国家があなたに何をしてくれるかを問うのではなく、あなたが国家に対して何ができるかを自問してほしい」(ジョン・F・ケネディ)と。
こういう民主主義観と対照的なのが朝日のそれではあるまいか。戦後70年を経た最初の意義ある8月16日付に「個人を尊重する国の約束」と題して個人を金科玉条とする社説を掲げているからだ。
曰く、戦後社会は「国家のための個人」から「個人のための国家」への転換であり、それが戦後の民主社会の基礎だが、この結び直した関係を無効化するかのような政治権力の姿勢が強まっている。要は安倍首相批判である。
もとより安倍首相も「国民のために国がある」(朝日)ことに異論はあるまい。安保法案をめぐる国会論議でも何度も「国民のために」と答弁している。朝日が個人を尊重する国の約束というなら、その個人は何をするのだろうか。個人を語るときそれが肝心だが、なぜかそのことを口にせず、ただ権利だけを言う。これでは国家は個人とどんな約束を結べばいいのか、わけが分からない。
◆国と民に革命的解釈
どうやら朝日は国家悪論に凝り固まっているようだ。社説は立憲主義について「(今年は英国の)マグナ・カルタ(大憲章)から800年の節目でもある」とし、「強大な権力を誇る王であれ、法に縛られる。貴族が王に約束させ50年後に議会も開かれた。その後、権力者間の闘争や戦争を経て、多くの国が立憲制を選び取ってきたのは、権力とはそもそも暴走するものであり、防御の装置は不可欠だという歴史の教訓からだ」と、国家と国民を対立関係で描く。
だが、そうだろうか。こういう見方は英国の政治思想家エドマンド・バークに言わせれば、フランス革命的な非英国的解釈だ。確かにマグナ・カルタは、王といえども法に縛られるとするが、その法は祖先から相続されてきたコモン・ロー、つまり伝統、慣習、先例にもとづく法だ。
王と民の関係は両者の信頼のうえに成り立ち、お互いがお互いを必要とする。それを歴史を継いで保障するために世襲があるとバークは言う。
「世襲を選ぶことにより、われわれは、自分たちの政治の骨組みに、血のつながりという姿を与えたのであって、われわれの国の国家構造をもっとも親愛な家族的きずなに結びつけ、われわれの基本法をわれわれの家族的愛情の奥底にとりいれ、われわれの国家と炉端と墓地と祭壇を、不可分に保持し、それらすべての、結合し相互に反映する慈愛の温かさをもって、慈しんできたのである」(『フランス革命についての省察』中央公論新社)
◆立憲君主の君主消す
こういう慈愛を朝日は国家と国民の間に感じないのだろうか。英国の政体を朝日は立憲主義と書くが、正しくは立憲君主主義だ。ここでも肝心の「君主」を消し去り、権力は暴走するものと断じるマルクス流の国家観を持ち込む。安保法案をめぐる論議の根底にはこうした人間観や国家観の違いが横たわっている。
トクヴィルは「あらゆるものは肉体とともに滅びる、と信じさせる傾向のある有害な理論」(すなわち唯物論)を述べる人々を「民主的民族の不倶戴天の敵と考えねばならない」と警鐘を鳴らす。トクヴィル流に言えば、マルクス的思考の朝日こそ「民主主義の不倶戴天の敵」なのだ。
(増 記代司)





