安保法制への反対に現実を見ぬ「法匪」と読売で批判した五百旗頭氏
◆言論責任示さぬ朝日
「破滅的な見当違い」。戦争の世紀と呼ばれた20世紀にそう呼ばれる教訓が残されている。ひとつは第1次世界大戦をめぐってだ。
1910年に米スタンフォード大学のジョーダン学長は、戦争を引き起こせば、欧州諸国は破産するから、起こせないとして「将来、戦争は不可能になる」と論じた。経済的相互依存、労働組合や知識人の相互交流、資本の流れなどで戦争は時代遅れになったと唱える学者らもいた。だが、14年に大戦が勃発し、「破滅的な見当違い」となった。
もうひとつは第2次世界大戦をめぐるチェンバレン英首相の融和政策だ。ナチス・ドイツの拡張政策を黙認し、38年に英仏独伊4カ国でミュンヘン協定を締結。これで矛を収めると考えたが、逆にヒトラーは英国が大陸に干渉しないメッセージと受けとって大戦に突き進み、これもまた「破滅的な見当違い」となった(ジョセフ・ナイ『国際紛争 理論と歴史』有斐閣・参照)。
いずれも国際環境の変化や軍事的脅威の現実を見ずに独り善がりな楽観的平和主義に陥って招いた悲劇的誤りだ。
では、安保関連法案の反対論はどうだろうか。衆院特別委で同法案が採択されると、朝日16日付社説は、通常2本のところを1本の長文社説を掲げ「戦後の歩み覆す 暴挙」と断じた。だが、法案が必要とされた国際環境の変化については最下段でわずかに次のように述べるだけだ。
「中国の台頭をはじめ、国際環境が変化しているのは首相らが言うとおりだ。それに応じた安全保障政策を検討することも、確かに『政府の責任』だ」
こう言いつつ、社説は続けて「ただ」と留保をつけ、集団的自衛権の行使が必要なら憲法改正を国民に問えと、いきなり論理を飛躍させている。ならば朝日は改憲に賛成するかと言えばノーだ。朝日に従えば「政府の責任」の果たしようがない。国際環境の変化が首相の言うとおりだと本当に思うなら、それにどう対応するのか、きちんと論じる。それが「言論の責任」だが、朝日にはそれがない。
◆朝日論調覆して平和
戦後の歩みを覆すと言うが、何を今さら、である。国際情勢の変化に合わせて安保政策は修正を重ねてきた。自衛隊創設や日米安保条約、PKO協力法などがそうだ。いずれも朝日は違憲だとして猛反対した。その意味で朝日的な「戦後」は何度も「暴挙」によって覆され、それゆえに今日まで平和が保たれてきた。
毎日17日付社説も長文で「国民は納得しない」と法案採択に反対する。ここでも国際環境については次のように記述するだけだ。
「国際情勢の変化には無論注意を払わねばならない。多国間のネットワークで自国の安全保障を考えていく必要も大事だろう」
これっきりである。おまけに続けて「しかし」と否定し、延々と憲法解釈論を持ち出し反対している。これでは国際情勢の変化に注意を払っているとはとても思われない。多国間のネットワークが大事と考えるなら、代案のひとつも聞いてみたいが、どこにもない。無責任言論の極みだ。
◆反対論こそ見当違い
こうした反対論に対して五百旗頭真(いおきべまこと)・熊本県立大学理事長(前防衛大学校校長)は読売19日付で「集団的自衛権 日本守る/『戦争しない』だけでは平和保てぬ/日米同盟強化 中国に自制促す」と、次のように論じている。
「現在の日本には『どこかの国に攻め込もう』という意思も能力も備えもない。それなのに、法制度に手をつけると『また日本が侵略戦争をする』と言う人がいる。古い観念に呪縛され、現実を見ずにいる。人間が作った法制を物神化するのは間違いだ。そういうのを昔の言葉で『法匪(ほうひ)』と言う」
法匪とは辞書には「法律の文理解釈に固執し、民衆をかえりみない者をののしっていう語」(デジタル大辞泉)とある。五百旗頭氏と言えば、何かと保守派に批判される人だが、こと安保法案については反対派を「法匪」と明快だ。
同氏は毎日に「大災害の時代」を連載している。だが、安保法案の論評はあまり見受けなかった。「法匪」呼ばわりされるのを嫌われたか。とまれ現実を見ない反対論は「破滅的な見当違い」だ。その歴史の教訓を心に刻みたい。
(増 記代司)