「性的指向」と利き腕を同列に扱う「同性婚」支持の朝日特別編集委員

◆私的性愛と制度混同

 5月に国民投票で「同性婚」を認める憲法改正を決めたアイルランドに続き、米連邦最高裁判所が同性婚を全米で合法化する判決を下した。わが国では4月、東京都渋谷区で同性カップルを「結婚に相当する関係」と認めて証明書を発行することを盛り込んだ「パートナーシップ条例」が施行された。

 こうした動きに便乗して、「日本も同性婚の容認だ」と言わんばかりの紙面作りを行っているのがリベラル左派の新聞だ。その筆頭とも言える朝日新聞は6月21日付「日曜に想(おも)う」という欄に、奇妙なコラムを掲載した。「同性婚『ありのまま』を尊びたい」との見出しで、同性愛者に強い親和性を示したのは特別編集委員の冨永格。

 「ことは性的指向、生まれつきという意味では右利き左利きほどの違いだろう。異性愛と同性愛の関係は、健全と病癖でも、正常と倒錯でもなく、単に多数と少数なのだ」という。ことは、社会の在り方の根本に関わる婚姻制度の問題にもかかわらず、性的指向と利き腕を同列に論じ、単に多数と少数の問題だというのだから、詭弁(きべん)というほかない。

 そればかりか、「同性愛は主義主張ではない。人間という生物の実態だ。……気持ち悪いというなら、私はむしろ『男は人前で泣くな』という決めつけに違和感を覚える」とした上で、「同性婚は夫婦別姓と同様、すぐれて個々の選択だ」という。何に違和感を覚えるかは、その人間の感性によるが、同性婚を容認するかしないかは制度の問題で、「個々の選択」ではない。私的な人間関係としての同性愛と、制度としての同性婚を混同しているのだ。

 それほどまでに同性婚を支持するのなら、国民投票で憲法改正を決めたアイルランドのように、わが国も憲法改正の国民投票を行うべきだと呼び掛けるべきだが、そこには触れない。日本国憲法は第24条に「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し」とある。ここから婚姻を男女間に限定しているとの解釈が多数派である。それでも同性婚は合憲だというなら、それこそ“解釈改憲”だろう。

◆東京にも同様な論考

 最近、共産党機関紙「しんぶん赤旗」より左寄りと言われる東京新聞にも、制度と私的な人間関係を混同する論考が載った。少し古くなるが、5月3日付の「時代を読む」という欄に、関西学院大准教授の貴戸理恵が寄稿した「同性婚の制度化を」だ。

 「『結婚とは何か』『パートナーシップとは何か』をめぐっては、さまざまな考えを持つ人がいて当然だ。こうした問題では、法制度ができるだけ『正しいかたち』を明言せず、多様性を認めることが重要だろう」と述べている。

 その上で、「『結婚はこうでなければ』と思う人は、自分で実践すればよいのであって、『あれはダメ』とわざわざ言う必要はない」と主張する。

 ここでいう「結婚」とは何を意味しているのか。わが国の婚姻制度は、自分勝手に実践できるようなものではないのだから、少なくとも制度としての婚姻とは違った人間関係だろう。

 貴戸は法制度も多様性を認めよ、と訴えているが、そもそも強い拘束力を持つのが法制度であって、それが私的な人間関係との大きな違いである。あれも婚姻、これも婚姻と、それぞれが自由に解釈していたのでは、制度の意味はなくなり形骸化するし、秩序は崩壊してしまう。具体例を挙げれば、もっと分かりやすい。

 もし、婚姻が男女のカップルである必要はないとするなら、一対でなければならないという理由もなくなる。同性婚を合法化した米国で、「一夫多妻」の合法化論議が起きているのはこのためだ。

 貴戸や冨永の論からすれば、自分の考えに従ってそれぞれが関係をつくればいいということになるが、そうなれば、婚姻制度の存在意義が消滅してしまう。制度の目的を問わないで、多様性のみを強調することの愚はここにある。

◆有性生殖の自然原則

 結局、婚姻とは、男女の結びつきによって生まれるであろう子供、つまり次世代の福祉を大きな目的とする制度で、その根底には有性生殖という自然の摂理がある。この婚姻制度の本質から考えれば、同性婚の是非は明らかなのである。(敬称略)

(森田清策)