溶融燃料の探索技術なども紹介すべき朝日の「『廃炉』無残な現実」
◆廃炉では技術者不足
週刊朝日5月22日号に「原発再稼働を前に『廃炉』無残な現実」と題した記事が出ている。リード文は「パンドラの箱が開いた後にはあらゆる災厄が地上に広まったが、最後に希望だけが残った(ギリシャ神話)――。残念ながら東京電力福島第一原発は、それすら見当たらない。(後略)」と厳しくおどろおどろしい。その内容は「技術者不足、廃棄場所なし、処理費1基約700億円、東電福島第一9・1兆円では足りない」というものだ。
現在、廃炉対象となっているのは、原発事故を起こした東京電力福島第一原発1~4号機のほか、今年に入って老朽化や経営的な判断から決定された日本原電の敦賀一号機など全国の原発5基。
しかし指摘された「東電福島第一9・1兆円」というのは被害総額であり、「廃炉」に対する直接的な費用ではない。このうち約5兆円超が住民への賠償費で、廃炉と汚染水対策の費用は約2兆円というところ。
また「技術者不足」についてはその通りだが、これは本格的な廃炉がわが国では未経験で、技術の積み重ねがないという理由が大きい。今回、図らずも廃炉を前倒しする事業者が出てきたため、その養成が急がれるが、日本で原発技術関係従事者の底辺は広く、それほど難しいことではなかろう。また廃炉技術についても今日、ミュー粒子による溶融燃料の探索技術など汎用(はんよう)が利くさまざまな新技術の可能性も見えている。廃炉の一連の経緯だけでなく、事故対応の「明」の部分もちゃんと紹介すべきだ。
次に「廃棄場所なし」だが、記事では「原発問題の難しさは、最終的に廃棄物の処分問題に行きつく」として「行き場のないゴミすでに問題化」(小見出し)を繰り返している。しかし廃棄物処理問題は、同事故以前からの懸案であって、廃炉とは直接的には関係がない。同事故を奇貨として、事故↓廃炉↓廃棄物処理問題の連鎖を言い立て、「パンドラの箱が開いた」と言ってのけるのは無理がある。
◆処理場は国民的課題
同事故前の平成22年3月に社団法人日本原子力産業協会が発行した「高レベル放射性廃棄物処分事業のさらなる理解に向けて」という資料がある。当時、高知県東洋町が最終処分場の応募を取り下げたことが話題となっていた。それについて「冷静な議論が難しい状況について」という項で論評。この中で「東洋町は死の灰の墓場となって人の住めない廃墟となります」という一方的な情報をマスコミがことさら取り上げ、選択にバイアスをかけたことに言及している。廃棄物処分地設定については「国民と一緒に作り上げるという考え方が必要」(同資料)なのだ。
にもかかわらず反原発を標榜(ひょうぼう)するマスコミは、事あれば原発施設本体だけでなく、処理場誘致反対で当の住民を煽(あお)ってきた。この記事も廃炉に手を挙げる事業者が出てきた機会をとらえ、新たに廃棄物処理問題を言い募っているように見える。確かに日本はエネルギー問題で一大試練期を迎えている。にもかかわらず記事では「(前略)“廃炉ラッシュ時代”を迎える。資金不足に陥れば、電気料金の値上げや国費の投入という形で、国民負担が高まることになりかねない」と他人事然なのはいただけない。
そもそも世界で唯一の被爆国・日本が、戦後、なぜ原子力を選択したか。長崎で被爆した医者・永井隆は直後、「原爆は決して許せない。このエネルギーを平和のために使わなければならない」という宣言を行い、それが全国に知られ原子力開発の原点となった。
◆原子力基本法が原点
その後10年を経て永井の精神は、1955年に制定された原子力基本法の中で活かされ、原子力開発現場に引き継がれた。原子力の平和利用の原点は世界に向けて日本人が誇りとするものである。また永井の「第2次大戦の愚を繰り返してはいけない。今後、科学技術によって自分たちで資源を得るんだ」という主張は、アジアの科学技術先進国として生きるという国民的合意につながった。今もその合意は大半の国民のうちで生きていると思われる。
わが国の先人たちはエネルギー確保に血と汗を流してきた。だが、今、繁栄の享受が当たり前の意識となって、エネルギーはどこからか自然に湧いてくる、というような錯覚に陥ってしまっている人たちがいるのではないか。
(片上晴彦)





