みのもんた降板劇に親の子への責任を掘り下げなかった新潮、文春

◆人物観に突っ込まず

 栄枯盛衰は世の習いとはいえ、飛ぶ鳥を落とすほどの盛隆を誇っていた人物が一転、奈落の底に叩き落とされる。庶民にとって芸能界の消長は茶飲み話の種になる――を絵に描いたような事例が「みのもんた」の降板劇だ。

 次男が窃盗で逮捕され、当初は「子供と親は別人格」と“正論”を吐いたものの、やはり「親の責任」追及が大きくなり、「報道番組」降板に至った。子供とはいえ30歳を超えた大人の責任を親がどう取れと言うのか。「育て方が悪かった」と言われれば、この批判を免れる親がどれほどいるだろうか。

 いずれにせよ、これこそ週刊誌の出番だ。格好の題材である。料理の仕方に編集者の腕が問われる。週刊新潮(11月7日号)は「自称報道人『みのもんた』は成仏したか?」という特集を載せた。

 記事は降板記者会見の様子を伝えている。事前に「TBSの幹部社員」から同誌記者は「表情に注目」とアドバイスを受けていたという。みのもんたは考えていることが表情に出てしまう、というのだ。

 だが、会見は表情から本音を探る必要もなかったようだ。同誌は、この会見が「息子の処分が出る前に降板表明することで、起訴猶予を狙った」もので、ひたすら「責任を感じて」「自分にとって苦しい道を選ぶ」ので「寛大な処置を」という姿勢を示していたと書く。実際に会見の翌日、次男は「起訴猶予」となっているから狙いは成功したわけだ。

 「責任を取る」目的は、次男の起訴猶予だけではない。「辞めないと収まらない風潮でなければ続けていたのか、と問われると、『もちろんです』と明言した」と同誌は紹介する。そして、「捲土(けんど)重来、またいつの日かね、お会いしましょうと」と、みのがラジオ放送で語った言葉も伝えている。つまり、息子の不始末で仕方なく辞めるが、「ガス抜き」が終わり、ほとぼりが冷めれば、返り咲くというわけだ。やる気満々なのである。

 みのには自分の価値基準はないようだ。世間がこうだったら、こうする、ああだったら、ああする、という「対応」だけがある。自身に揺るぎない価値の軸がないことを告白しているようなものだ。

 同誌はなぜか、この部分を取り上げていない。同誌はこの記事で「報道人」としてのみのを俎上(そじょう)に挙げているはずだが、報道人に求められるモラルや倫理の欠片もないみのの、ある意味あけすけのホンネを晒(さら)すだけだ。

 記事ではこのほかに評論家らに今回の会見に対する感想を聞いている。ほとんどが彼を「ジャーナリスト」とは見なさず、「仕切り役」か、せいぜいが「ご意見番」だと、散々な評価だ。これを並べて同誌のみのに対するスタンスを代弁させたようだ。

◆何でも暴かれる番に

 もうひとつの側面も取り上げている。番組降板による収入減である。なにしろ1本200万円の出演料、年間にして5億~6億円が入ってこなくなる。しかも、みのの事務所は自身が持つ水道メーター会社で、会社の赤字をみのの出演料で埋めて、莫大なギャラの税金対策にしてきたという。このように、いったん落ち目になると、何でもかんでも暴かれる。

 週刊文春(11月7日号)は「みのもんた『バカヤロー』会見の大嘘」として、会見2日後に直接2時間のインタビューを行った。同誌は、「会見には多くのウソが隠されている」として、「最大のウソ」は息子を「厳しく育てた」ことだと指摘する。

 これまでも芸能人の子弟が不祥事を起こすごとに、「育て方」が言われてきた。昨今、芸能人に限らず、子育てが難しくなっており、正答があれば聞きたい、という読者の方が多いのではないだろうか。「罪なき者、石もて打て」のイエスの言葉が耳に痛いだろう。そして息子のマンション、家、土地など根掘り葉掘り聞いている。どれも、通常の取引で、犯罪や悪意があるとは思えない。落ち目の芸能人とは、ここまで穿られ、叩かれるという見本のようだ。

 みのは会見で、家族のことなどがすべて暴かれた、とプライバシーの侵害をにおわせていたが、それこそが、みの自身が属する芸能メディアの常套(じょうとう)だ。自身は番組で容赦なく、暴露したことがなかったのか。

◆豪邸生活は関係ない

 新潮は「成仏しきっていない」と言い、文春は直接インタビューを行い、それぞれ特長を出した企画で迫った。だが、「子どもの不始末の責任を親はどこまで取るべきか」をもっと掘り下げてみてもよかったのではないか。それ以外、みのが「17億円の豪邸」に住もうが、読者にとってはどうでもいいことなのだ。

(岩崎 哲)