ベトナム戦争終結40年にメディアの情勢錯誤指摘した産経・古森氏

◆共産主義を見抜けず

 ベトナム戦争が終結して4月30日に40年を迎えた。折しも安倍晋三首相が訪米し、紙面は日米モノで埋まり、ベトナム報道は国際面に散見される程度だった。そんな数少ない記事の中で、産経の古森義久氏(ワシントン駐在客員特派員)の論評が光っていた(30日付「サイゴン陥落40年・下」)。

 古森氏はサイゴン陥落を現地で目撃した、数少ない日本人ジャーナリストだ。当時の体験を想起し「身を切られるような教訓とあぜんとするような歴史の皮肉を痛感させられる」と述べている。

 その教訓は「メディアの罪」だ。「(ベトナム駐在時に)日本のメディアや識者の大多数が犯したベトナム戦争の本質への誤認をいやというほど知らされた。日本の国際情勢認識がいかに大きな錯誤へ走りうるかという痛烈な教訓だった」としている。

 誤認は三つある。第一は戦争の基本構図を「米国の侵略へのベトナム人民の闘争」と断じた誤認、第二はこの戦争を民族独立闘争としかみず、他の支柱の共産主義革命をみないという誤認、第三は「米国とその傀儡(かいらい)さえ撃退すれば戦後のベトナムはあらゆる政治勢力が共存する民族の解放や和解が実現する」という北側の政治宣伝を信じた誤認である。

 要するに、この闘争はすべて共産主義を信奉する北のベトナム労働党(現共産党)が主導し実行したが、日本では「米軍と戦うのは南ベトナムのイデオロギーを越えた民族解放勢力で、北の軍隊は南に入っていない」という北側のプロパガンダを受け入れ、錯誤へと走った。古森氏はそう指摘するのだ。

◆嘘を承知で書く朝日

 名指しこそしていないが、明らかに朝日のことだ。当時、現地ルポ「戦場の村」でスター記者となった本多勝一氏やサイゴン支局長だった井上一久氏らは民族解放闘争と書き続け、「ハノイのスピーカー」とさえ揶揄(やゆ)された。

 サイゴン陥落の翌日の朝日社説(1975年5月1日付)は「長い流血の歴史が、ここに終わりを告げ、ベトナムに平和が立ち返ったことを、心から喜ばずにはおれない」とし、「ベトナム戦争は、徹頭徹尾、民族解放の戦争であった。それが解放勢力の勝利に終わったことは、民族主義を大国が力で抑えつける時代は終わったことを示している」と、誇らしげに書いている。

 もとより嘘っぱちだった。民族解放闘争が建前であることを実は朝日も知っていた。サイゴン陥落後、井上氏は「北の正規軍が南の戦闘を指導しても、ベトナム人にとってはさして異常な事態ではない」と断じ、「民族解放が終われば、当然のことながら、革命が至上命題となる」(『朝日ジャーナル』75年7月4日号)とまで書き、朝日記者の思想的背景を露(あら)わにした。

 その革命の迫害から逃れるため百万以上もの人々がボートピープルとなったが、本多記者は「(社会主義革命を)不快とし、喜ばぬ度合いは、旧サイゴン政権時代に『良い思い』をしていた階層の、その『良さ』の程度とほぼ一致する」(77年4月11日付)と、共産政権を擁護しベトナム難民を嘲(あざけ)った。

◆大誤報への反省なし

 朝日のベトナム報道は、慰安婦や文革時代の中国報道などと並ぶ、天下の大誤報だった。それも意図的だったから捏造(ねつぞう)と言っても過言ではない。朝日が真実に向き合うなら、それこそ「痛切な反省」があってしかるべきだが、知らんぷりを決め込んでいる。

 柴田直治・国際報道部機動特派員(元論説副主幹)は1日付「ザ・コラム」でサイゴン陥落40年を論じ、「ベトナム戦争は同じ民族が殺し合う内戦でもあった」と、しゃあしゃあと書いている。「学生時代、民族解放の闘いに共感した」という柴田氏はベトナム人を米越で取材し、「40年をへてなお国民和解に至らない」と残念がるが、こういう情緒的態度こそ国際情勢認識を錯誤させる元凶だ。

 古森氏の言う「歴史の皮肉」はベトナム現政権の親米路線を指すが、朝日の困惑ぶりもあぜんとする皮肉だ。ベトナム報道で名を馳せた古森氏や徳岡隆夫氏はいずれも毎日記者だったが、古森氏は産経に移籍、徳岡氏は保守評論家として活躍し、当の毎日が「朝日路線」をとるのも大いなる皮肉である。

(増 記代司)