「イスラム国」邦人人質事件でテロ批判が米国批判にすり替わる朝日
◆テロ集団に与した?
イスラム過激派「イスラム国」の残虐極まりないテロ行為に国際社会はどう立ち向かうか、新たな段階に入った。わが国は2邦人を殺害され、標的に名指しされただけにテロ対策が急がれる。
テロ集団は「世界16億人のイスラム社会の中で、悪性細胞のような存在」(毎日2日付社説)だ。外国人を人質にとって殺害、他宗派をジェノサイド(大量虐殺)し、女性や子供を戦利品として戦闘員に与えたり、奴隷として売り払ったりしている。彼らの跋扈(ばっこ)を許せば、苦しむ人々が増えるだけだ。
こういう「悪性細胞」に対して妥協の余地はない。帝釈天や不動明王のごとく、鎧(よろい)を身に着け、剣をもって毅然(きぜん)と臨まねばならない。悪の侵食を抑え込む「力」が必要で、ただ平和を唱える空想的平和主義に陥ってはなるまい。
ところが一部に米国の「力の政策」がテロを招いたといった本末転倒の論議がある。朝日の三浦俊章・編集委員は、9・11同時多発テロ後の米国を次のように描く。
「ブッシュ米大統領は『テロとの戦争』を宣言、米政府はアフガニスタンでの武力行使に踏み切った。さらに一方的な先制攻撃で、イラク戦争が始まる。盗聴権限強化など、人権より安全を優先する政策が続いた。…過剰な『正邪』の意識が、米国の人々の目を曇らせ、彼らが誇る民主的価値を傷つけたことは、覚えておいてよい」(6日付「イスラム国」事件・下) テロ批判がいつの間にか米国批判にすり替わっている。「人権より安全を優先」したと言うより、「安全のために人権を制限した」と言うべきだ。テロ容疑者を拷問にかける勇み足はあったが、大局において米国は民主的価値を損なっていない。にもかかわらず、「覚えておいてよい」の捨て台詞ではテロ集団に与(くみ)しているのかと見まがう。
◆言葉だけ躍る紋切型
三浦氏は「力の政策は、報復の応酬を招いている」とし「試練の時に必要なのは、力の信仰ではない。深い思慮である」と、紋切型の力の政策批判で記事を結ぶ。が、現実は違う。テロ集団は無辜(むこ)の人々を虐げているのだ。だからこそ、暴虐を防ぐ「力」が必要で、いったい他にどんな「思慮」があるというのか。あれば、ノーベル平和賞ものだが、例によって「思慮」の言葉を躍らせているだけだ。
それに認識違いも甚だしい。アフガンでの米国の武力行使は、「テロリズムに対してあらゆる手段を用いて戦う」とした国連安保理決議に基づく。
またイラク戦争を一方的な先制攻撃とするのも間違いだ。当時のフセイン政権は国連決議を10年以上にわたって17回も破り、大量破壊兵器開発の疑惑を晴らす義務を怠った。
それで米国はフセイン一族に48時間の猶予を与えて亡命を要求したが、拒絶したのでイラク攻撃に踏み切った。戦争後、大量破壊兵器は発見されなかったが、ならばなぜフセインは査察を拒絶したのか。国連決議は重いはずだ。
同種の米国悪玉論を長谷部恭男・早大教授が朝日8日付で語っている。氏はイスラム過激派が跋扈するようになった要因をイラク戦争とするが、果たしてそうか。国際テロ組織アルカイダは、はるか以前の1990年代から米国を標的に数々のテロを起こしてきている。
◆戦争招く「力」の否定
長谷部氏が言う「イスラム過激派」がイスラム国を指すなら、跋扈の理由はイラク戦争ではない。毎日のイスラム国特集(1日付)は「(イラクでの)米軍の攻撃と、組織の残虐性がスンニ派住民の反発を生んだことから、勢力は一時衰退した。転機となったのは、11年末の米軍のイラク撤退と、隣国シリアで12年から本格化した内戦だ。『権力の空白』に乗じて勢力を拡大」したとしている。
そのシリア内戦を激化させたのもオバマ大統領が「力の行使」をためらい、いったん決めた軍事攻撃を中止し、混乱に拍車をかけたからだ。朝日や長谷部氏にとっては「不都合な真実」だろうが、これが世界の現実だ。慈愛を説く仏教に帝釈天や不動明王がおられるのはそんなわけからだろう。
「力」を否定するのは一見、平和主義に見えるが、それが逆に戦争を招いたり、テロリストを助長したりする。空想的平和主義こそ、平和の敵だ。
(増 記代司)