護憲論調の朝毎に「表現の自由」に責任伴う主張せしめた風刺画事件
◆ムハンマド画の扱い
テロをめぐって1月に二つの衝撃が走った。イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載した仏週刊新聞「シャルリー・エブド」の襲撃事件と日本人人質事件だ。いずれもイスラム過激派の犯行だ。
言うまでもないことだが、いかなる理由があっても暴力をもって人命を奪う行為は許されない。その一方で前者については「他者の信仰を侮辱したり、もてあそんではならない」(フランシスコ・ローマ法王)。表現の自由も一定の限度があってしかるべきだ。
本紙元旦号が創刊40周年特集で「自由言論」と「責任言論」の在り方に言及していたのは示唆的だった。自由のないところには自由言論を、自由のあるところには責任言論を、である。民主社会には「責任感と倫理性が伴う自由」が必要だ。
その点、わが国の新聞の対応はいささかぶれた。仏週刊紙が襲撃事件後、再びムハンマドの風刺画を表紙にした特別号を発刊(14日)、これを日経、産経、東京、共同通信が掲載した。「読者の知る権利に応える責務」(共同通信)、「読者に判断してもらう材料」(産経=いずれも朝日16日付)と言うが、やはり行き過ぎだ。
不掲載の毎日の小川一編集局長は「表現行為に対するテロは決して許されず、言論、表現の自由は最大限尊重されるべきだ。しかし、言論や表現は他者への敬意を忘れてはならない。絵画による預言者の描写を『冒とく』ととらえるイスラム教徒が世界に多数いる以上、掲載には慎重な判断が求められる」と述べている(15日付)。
毎日16日付社説「表現すること 他者を尊重する心も」は、「表現には、節度や良識の裏付け、行使する側の責任も伴うことを、改めて自覚したい」としている。良識的な見解だ。
同じく不掲載の朝日は「紙面に載れば大きさとは関係なく、イスラム教徒が深く傷つく描写だと判断した。たとえ少数者であっても、公の媒体としてやめるべきだと考えた」とし、記事では絵柄を具体的に説明したとしている。
ところで風刺画をめぐる騒動は何もいまに始まった話ではない。2006年にオランダの新聞がムハンマドの風刺画を掲載した。そのときは産経も「掲載の適否はあくまでも報道機関が自主的に判断する。これは譲れない。だが『表現の自由』は理性に基づいた責任と節度、ときには自制が求められる」(同年2月10日付主張)として掲載しなかった。当時、掲載した新聞は皆無だった。
それが今回、対応が分かれた。テロリストが宗教対立や「文明の衝突」を画策していたとすれば、掲載は彼らの思うツボにはまることになる。慎重に判断すべきだった。
◆有害な表現に規制を
それにしても護憲派の朝日と毎日が表現の自由に責任が伴うと主張したのは意義深いことだ。ぜひ、その考えを憲法論議に生かしてもらいたい。なにせ現行憲法は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」(21条)と、「一切」の表現の自由を認めているのだ。
護憲学者はこれを盾にとって、例えば青少年の健全育成を妨げる残虐ゲームソフトやCDを規制しようとすると、決まって「表現の自由を奪う」と反対する。特定秘密保護法も共謀罪を盛り込む組織犯罪処罰法改正も同様だ。
最高裁が06年に幼児連続殺人犯の宮崎勤被告に死刑判決を下した際、毎日は「類似犯防ぐ環境整えよう」(同1月18日付)との社説を掲げ「野放し状態に近いアニメや漫画を含め、犯罪行為を正当化するような映像やゲーム類は、社会を挙げて一掃する方策を講じる必要がある」と、表現の自由の規制に言及した。
◆護憲学者が今も闊歩
ところが、これに護憲学者が猛反発、同社の紙面委員会では「表現の自由への配慮を欠き、あまりにも安易で短絡的だ。『有害環境からの青少年保護』を掲げて、表現への政府の介入を強める法案の上程を与党がうかがっている現実をどう認識しているのか」(田島泰彦・上智大学教授)と、やり玉に挙げられた(同2月7日付)。以降、毎日の歯切れは悪い。今もメディア面には護憲論者が闊歩(かっぽ)している。
とまれ言論には責任が伴う。このことを改めて確認しておこう。
(増 記代司)