仏国のテロに風刺と表現の自由、宗教の尊厳など文春で説く識者ら

◆キリスト教にも風刺

 フランスの風刺画週刊紙「シャルリー・エブド」がイスラム過激派に襲撃された事件は「表現の自由」とともに、宗教に対する理解の重要さを実感させた。

 わが国でも「表現」をめぐってメディアが抗議されたり、襲撃される事件はときどき起こるが、今回のテロ事件のように、宗教が絡むことは少ない。それだけに、日本人の「表現の自由と宗教」に対する洞察は、どうしても浅薄なものになりがちだ。

 時事問題を分かりやすく的確に解説するコラムニストの池上彰氏が週刊文春で連載している「池上彰のそこからですか!?」で「風刺は『表現の自由』か冒★か」(同誌1月29日号)を書いている。

 テロ後、同紙が、ムハンマドが涙を流して「私はシャルリー」というプラカードを持っているイラストを掲載したことを、池上氏は「それでも風刺の精神を忘れない。新聞社の強い意志を感じさせます」と評価し、「フランスには、こうした風刺の伝統を『表現の自由』として守ろうという心意気があります」と伝えている。

 しかし、「風刺画は、立場によって、人の心を傷つけるものだということがわかります」「ムハンマドを風刺すると、イスラム教徒の心を傷つけてしまう事態になるのです」として、過激なテロ行為が行われた背景を説明した。

 確かにフランスには18世紀の革命以後、風刺画の伝統と「表現の自由」が同国社会の発展に寄与してきた歴史がある。そして、政治的権威のみならず、宗教権威、すなわち新旧問わずキリスト教にも辛辣(しんらつ)な批判と風刺を行ってきた。

◆イスラム教徒イジメ

 だが、どうみてもシャルリー・エブド紙の「風刺」はやりすぎな気がする。同誌に「言霊USA」を連載している町山智浩氏がその「ヒドさ」を紹介する。

 「ムハンマド役の男が撮影現場で豚の頭を抱えて『ハメる相手が豚の頭でいいの?』とカメラマンに尋ねると『9歳の女が調達できなくて』と言われる。ムハンマドの妻帯伝承へのおちょくりだ」

 豚はイスラムでは禁忌だ。ムハンマドは9歳の妻を迎えたと言われる。なんとも酷い「表現の自由」だが、フランスはこれでも良しとしているのだろうか。

 多民族国家アメリカに本拠を置く町山氏は、「欧州の権力であるカトリックに逆らうのは『反権力』でも、少数派であるイスラム教徒をスタンド売りの新聞がからかうのは『イジメ』だ」としているが、その通りだろう。

 池上氏に話を戻す。「ムハンマドを風刺すると、イスラム教徒の心を傷つけてしまう事態」になり、今回のテロが起こった、という風に読めるが、「自分が尊ぶ権威を傷つけられたので、頭にきて、ぶっ殺した」というと、イスラム教徒がなにか非常に単純で粗暴な野蛮人に見える。

 だが、そうだろうか。同誌の別のコラムを見る。「宮崎哲弥の時々砲弾」だ。宮崎氏は「イスラム政治思想研究者の池内恵氏」の言説を引用した。池内氏は、「イスラーム教の規範からはムハンマドの図像を描くという行為自体によって大罪が犯されているのであって」「単に『揶揄(やゆ)されて不愉快である』といった個々人のイスラーム教徒の『心の問題』ではない」(『「他者への寛容」だけでは解決しない』「論座」2006年4月号)と述べている。

 その上で宮崎氏は、「単に“信者の感情を害した”と捉えること自体が、ムスリムから見れば世俗主義に毒された同情であり、ことの重大性を一向に理解していない証左となる」と断じている。

◆宗教事情の理解必要

 もちろん、池上氏がこの点を指摘していないわけではない。「ムハンマドの絵を描くことは許されないこと、というのが共通理解です」と述べている。しかし、それが「大罪」であるとまでは念を押していない。信仰者にとって「大罪」は「死」を意味する。

 信仰の埒外(らちがい)にいる人にとっては迷惑この上ない話だが、そうした「考え」が日常的に隣り合っている今のフランスという社会と、その宗教事情を正しく理解することは重要だ。

 同誌でもう一つ。在仏ジャーナリスト・広岡裕児氏の「テロが暴露したフランスに蔓延(まんえん)する差別と二重基準」で、いま欧州で広がる「イスラム嫌悪」と「イスラム教徒への差別」が取り上げられているので一読を勧める。

(岩崎 哲)