朝日「吉田調書」誤報のお粗末な検証結果と木村伊量社長の引責辞任
◆意図中心の検証が筋
朝日が福島第一原発事故の「吉田調書」報道をめぐって、「重大な誤り」とする第三者機関の見解を発表した(12日)。さらに木村伊量(ただかず)社長の引責辞任も明らかにしたが、これをもって幕引きにするのはあまりにもお粗末だ。
「吉田調書」報道の検証結果について朝日13日付は1面で「『公正で正確な姿勢に欠けた』 記事取り消し『妥当』」との見出しで、同社の第三者機関「報道と人権委員会」の見解を発表した。
2面では西村陽一・取締役編集担当の「報道の原点に立ち返ります」とのお詫び文、中面では見解の要約と全文など実に5ページにわたって掲載した。この長文の見解を読んでみたが、まったくもって物足りない。
朝日は5月、福島第一原発の吉田昌郎所長(当時)の政府事故調査・検証委員会の聴取結果書(吉田調書)を入手し「所長命令に違反、原発撤退」と大きく報じた。だが、その記事をもってしても「違反」「撤退」とは読めず、他メディアから批判が続出。政府が調書を公表するに至って朝日の捏造(ねつぞう)報道が明白になった。木村社長は9月の記者会見で記事を取り消し、第三者機関で検証するとした。
問題の核心はなぜ「重大な誤り」を起こしたのか、その原因究明に尽きる。それは記者の国語力が恐ろしいほど低かったのか、それとも意図的にねじ曲げたのか、いずれでしかない。もとより天下の朝日記者だから、国語力が低いはずがない。とすれば、第三者機関は「意図」を中心に検証するのが筋だろう。
ところがその意図について見解は見事なまでに封印した。産経は「事実軽視の理由 解明不十分」とし「記者の推測に基づく報道が、会社の体質や同社の報道姿勢とどうかかわっていたのか、踏み込んだ分析がなければ、再び同じ過ちを繰り返すことになりかねない」(13日付)とし、14日付主張では「『なぜ』の視点が足りない」と重ねて批判した。
言うまでもなく、朝日の体質はイデオロギー優先だ。それで「『反原発』という同紙の主張にもってこいの記事だとして、評価の甘さはなかったのか」(主張)というのが素朴な疑問だろう。第三者機関はその解明を棚上げにした。
だから、「担当記者が調書を読み誤り、編集局のチェック機能が機能しなかったとの見解は会社側の説明に沿った内容」(服部孝章・立教大学教授=日経13日付)と見るのが順当だ。読み誤ったということにして「意図」を覆い隠そうとしているわけだ。
◆毎日は的外れな論評
また見解はチェック機能が機能しなかった理由を「取材記者を過度に信頼し、任せきりの状態」とするが、そうではあるまい。朝日社内の「言論空間」が異論を排斥したのではないか。そのことは池上彰氏のコラム掲載を見合わせた姿勢からうかがい知れる。
佐藤卓己・京大准教授は「速報性を重視する新聞にとって、誤報は避けられないものだ。重要なのは、誤報の後のすみやかな訂正、謝罪だ。朝日新聞が誤報を認めた点は正しく評価されるべきだ」(毎日15日付)とするが、いささか的外れな論評だ。
朝日13日付によれば、記者が調書を入手したのは今年3月。4月には複数のスタッフによる原稿作りが始まり、5月12日には「命令違反」「撤退」の表現が盛り込まれた原稿案が示された。その後、検討を重ねて問題の5月20日付報道に至った。だから速報性はまったく関係ない。
一方、朝日応援団の大石泰彦・青山学院大教授は「捏造でなく勇み足の誤報」(毎日15日付)とかばっているが、こういう見方も解せない。勇み足(つい勢いにのって、やり損なうこと=広辞苑)といった「つい」ではなく、明らかに用意周到な記事だ。だから捏造(事実でないことを事実のようにこしらえて言うこと=同)と表現するのがふさわしい。
◆記者会見なく無責任
ところで第三者機関の見解発表は紙面だけで、記者会見はなかった。その2日後にこれまた、記者会見なしの一方的な社長辞任の発表だ。慰安婦問題は他の第三者機関が検証中で、その結論が出る前に「再生をめざす道筋はつきつつある」(木村社長)として辞任するのは無責任すぎる。こういうところにも唯我独尊の朝日の体質が現れている。
(増 記代司)