朝日「林彪事件をたどって」の続編で自らの事件報道にメスを入れよ

◆中共の組織矛盾突く

 朝日の古谷浩一中国総局長が夕刊紙上に「林彪事件をたどって」と題する興味深いシリーズを執筆した(10月17~31日付=全11回)。

 古谷氏は1年前に中国総局長として北京に赴任して以来、取材の合間に、手探りで林彪事件(1971年9月13日発生)の真相を調べてきた。それは近年の薄熙来や周永康の失脚劇に見られるような「激しい権力闘争を繰り返す中国共産党という組織の矛盾が、林彪事件に凝縮されているのではないか」との思いからだという。

 林彪は毛沢東に後継者とされ、文化大革命で辣腕を振るったが、クーデターを企てたことが発覚し、専用機でソ連に亡命を企てて墜落、死亡した。中国当局は1年近く事件を公表しなかった。連載は墜落地のモンゴルや生存する関係者を取材した力作である。

 その中で古谷氏は「(当時)林彪の異変を察知し、多くの外国メディアがこれを報じ始めてからも党は対外的に沈黙を守った」とし、その理由として事件1カ月後の71年10月にキッシンジャー米大統領補佐官の訪中、72年2月にニクソン米大統領の訪中があり、「指導部のあつれきを対外的に知られたくない中国の事情が浮かび上がる」としている。

 だが、意欲的な取材にもかかわらず、真相は党によって覆い隠されたままで、古谷氏は「答えを求め、今後も取材を続けたい」と結んでいる(31日付夕刊)。

 続編を大いに期待したいが、それには朝日の林彪事件報道の真相究明も加えてもらいたい。と言うのは、古谷氏が書くように多くの外国メディアが異変を報じ始めたとき、朝日はまるで中国当局の意に従うかのように真相隠蔽に手を貸し、日中国交(72年9月)のお膳立てをしたからだ。林彪事件報道は慰安婦虚報と並ぶ、いやそれ以上の問題報道だったと言ってよい。

◆政変否定し安定強調

 当時を振り返ると、71年9月に国慶節のパレード練習中止や林彪が前文を書いた『毛沢東語録』が北京の店頭から消えたりする「北京のミステリー」と呼ばれる奇怪な事態が発生し、西側メディアはこぞって政変劇の予測を報じた。だが、朝日の秋岡家栄北京特派員は「新しい祝賀形式に変わったのではないか」(9月27日付)「北京市内に政治異変を示すような兆候はない」(10月1日付)と、政変否定記事ばかりを書いた。

 朝日が初めて正式に林彪失脚を報じたのは実に10カ月後の72年7月のことだ。AFP時事が同28日に「林彪死亡、毛沢東が確認、クーデターを企てソ連に亡命図る」と報じたのを受けて、秋岡特派員は翌29日付に「失脚までの長い道」と題して次のように記した。

 「(林彪は)ただ政権を奪うためだけに徒党を組んだ…一部の軍首脳もこうした個人の野望に基づく政権奪取の仲間に入った公算が大きいとされる…(しかし)軍の建て直しは急速に進み、いまでは軍長老格で政治局委員の葉剣英と…李徳生の両氏が中心にすわっている」

 こういう解説こそ、古谷氏が疑問を抱き続けてきた中国当局の筋書きにほかならない。もちろん虚報である。実際は全軍区の司令官の入れ替えが行われ、江青ら四人組と周恩来グループの争いは激化の一途を辿っていた。

 わが国は日中国交という政治課題を抱え、外交政策を考える上で、なによりも中国の正確な情報が必要だったが、朝日は林彪事件を闇に葬ろうとし、中国の政治安定を演出して日中国交をけしかけた。そこには「真実の追究」という新聞の使命感はまったく感じられない。

◆報道の自由売り渡す

 こうした報道姿勢は秋岡特派員に限らず、社を挙げてのものだった。68年に朝日は「政治3原則」(①中国敵視政策をとらない②「二つの中国」に加わらない③日中国交の回復を妨げない)を受け入れ「報道の自由」を中国に売り渡した。朝日は中国当局の政治宣伝に全面協力し、国民の「知る権利」を奪ったのだ。

 その流れの中に朝日の林彪事件報道がある。古谷氏は林彪事件に共産党の矛盾が凝縮しているとみるが、朝日の林彪事件報道には朝日の中国報道の矛盾が凝縮している。続編でそこにメスを入れれば、古谷氏の健筆がさらに光るはずだが、どうだろうか。

(増 記代司)