思想史を辿り倫理・宗教観なき資本主義の限界示したエコノミスト
◆アカデミックな視点
貧困層の増大や顕在化する格差社会という言葉が頻繁に出回る日本社会。かつて国民の大半が「私は中流階級」という意識をもち、先進国の中でも所得分配が均等化されているといわれた日本でさえ、近年では地域間の格差、教育の格差、文化生活面での格差が指摘されている。
一方、資本主義の発祥地の欧米各国を見ると、ギリシャやスペインは経済破綻の危機に見舞われ、フランス、イギリスもひと頃の勢いは見られない。むしろ国境を越えたマネーゲームの横行で、国民経済が翻弄(ほんろう)されるという憂き目に遭っている。果たして、資本主義は今後も世界を牽引(けんいん)する経済システムになりうるのか。そうした議論は共産主義が瓦解した20世紀末、21世紀初頭から繰り広げられてきた。
そうした中で週刊エコノミストは、8月12・19日号で「資本主義」そのものに焦点を当てた。「資本主義をとことん考えよう」との見出しが付いた同号では、資本主義の問題点を総洗いすべく、その歴史を振り返りながら本質を掘り下げている。ちなみに、エコノミストで見出しに「とことん」という言葉が付いたのは、今年の7月8日号の「とことん分かる2014年下期のマーケット」であった。たしか同号は三つのパートから成る大特集を組んでいた。
ところで現在、国内で発行される主な経済誌は、週刊東洋経済、週刊ダイヤモンドそして週刊エコノミストなどがあるが、その中で東洋経済やダイヤモンドが時流的で、生活に密着した特集が多いのに対し、エコノミストはアカデミックな視点で特集を組む傾向がある。
◆終焉を指摘する識者
今号の「資本主義」の特集についても、単なる経済記事とは異なり、資本主義という思想に大きく焦点を当てているところが興味深い。第1部では混迷する資本主義社会(とりわけ欧米各国)の限界を分析し、第2部では資本主義の起源やアダム・スミスやマルクス、ケインズなど歴史に現れた経済学者とその思想を紹介する。
第1部で興味深かったのは、寺島実郎・日本総研理事長と水野和夫・日本大学教授の対談であった。とりわけ水野氏の「資本主義終焉(しゅうえん)論」である。すなわち、「先進国の資本主義は役割を終えた」というのである。その理由として同氏は利潤率の低下を挙げる。「資本主義は(先進国のような)中心の国が(アフリカなどのような)周辺に市場を広げ、そこから利潤率を上げてきたが、もはや周辺国が残っていない。利潤を上げる空間がないところで無理に上げようとするとバブルが起き、そのしわ寄せとして格差社会が起こる」という。
もう一つの理由が利子率の低下。先進国の政策金利はおおむねゼロの低金利。資本の自己増殖率が低下した資本主義は機能を発揮できていないというのである。
そもそも、資本主義の源流を探っていくとイギリスの二つの市民革命、すなわち清教徒革命と名誉革命、さらには西欧を覆った宗教改革に遡る。それまでの絶対王政やカソリシズムの下の中に組み込まれた市民が、ついには「主権」を握る過程で経済的な主導権を握るようになっていく。そうした経済活動に対して、プロテスタンティズムによる理論的な後付け(正当化)がなされていった。ところが、プロテスタンティズムという宗教的(倫理的)価値観が脱色されてしまえば、後は奔放な経済活動のみが独り歩きしていく。
◆独自システム構築を
対談の中で寺島氏は、マックス・ウェーバーが1905年に発刊した『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を引用して「当時の米国の資本主義について、『宗教性や倫理性を切り離した、単なる利潤追求に成り果てている。この先来るのは、とんでもない荒廃だ』と米国の将来を予言している。実際、現在はマネーゲームの成功者を勝者と捉え、経済を動かすシステムの規範性が欠如している」と訴えている。
戦後の日本は「より平等な社会」の構築をめざし、その上で「日本型企業システム」をつくり上げてきた。実際にそのシステムは日本経済を大きく牽引してきた。しかし、バブル崩壊以降、そのシステムは崩れ、新たな社会システムを模索している。少なくとも、米国型の資本主義システムはその限界を露呈しているのは明白。日本は独自の社会システム構築に力を注ぐ時期に来ていると言えよう。
(湯朝 肇)