佐世保事件少女の「殺人衝動」まで追った新潮は父親弁護士を問題視

◆文春は核心に迫れず

 長崎県佐世保市の「高1女子惨殺」事件が衝撃を与えている。同級生を自宅マンションで殺害した犯人の「少女A」は警察の取り調べで、「人を殺してみたかった」と供述していることが報じられたが、到底理解できない。

 普通、人が人を殺すのには、憎しみ、怒り、恨みなどの「殺意」が伴うはずだ。ところがAは被害者を憎んでいたわけでも、恨んでいたわけでもない、むしろ仲が良かったというのだ。

 その友達を「解剖して見たかった」という理由で命を奪い、首と左手首を切り離し、内臓を取り出した。これはもう完全に理解不能だ。人はそこに答えを求めたがる。「なぜ」「どうして」という疑問符が頭の中をぐるぐる回っている。週刊誌の出番である。

 週刊文春(8月14、21日号)は「本誌の取材により、事件の核心に迫るような驚愕の事実が判明した」と伝えた。Aが「祖母の養女」になっていたというのだ。

 このことで、Aが「親子の縁」を切られたと受け取ったとも考えられる。その直後に寝ている父親をAが金属バットで殴る事件が起こった。これと関連付けて、同誌は動機の一部のように臭わせているが、どうみても、これだけが事件の「核心」ではないだろう。

 戸籍改変は財産分与や節税の対策としてはあることだ。戸籍上、弁護士の父親とAは「義理の兄妹」となるが、実生活での父娘関係は変わらないのだから。

 それに、週刊新潮(同)も「金属バット事件の直前にはAを自らの母親の養子にし」とこの件に触れており、文春の特ダネというわけではない。新潮はこれを「事件の核心に迫る驚愕の事実」とは扱っていない。

◆猛抗議で反省ならず

 むしろ、注目すべきは、前々からAに「殺人衝動」があり、精神科医など専門家が“警告”していたにもかかわらず、事件を防げなかったことの方に焦点を向けるべきではないだろうか。

 どのようにしてAの精神や内面世界が形成されていったかを究明することも重要だが、その「殺人衝動」を抑え、回避させるチャンスがありながら、それを逃し、1人の女子生徒の命が奪われたことを考えれば、父親、家族、精神科医、学校などが、可能でありながら逃した対応のチャンスを検証することは、今後、万が一起こるかもしれない同様なケースに対処するためには必要なことだ。

 Aは小学6年の時、給食に「毒物」を混入したことがあった。この時、「謝罪と別教室での授業」の措置をとった学校の対応に父親は「猛抗議」して、学校側との議論は平行線だったという。この時、Aは「反省」の機会を失っている。

 中学に入ってからAは、「殺人に対する興味が芽生えた」と供述し、同誌は「猫の虐待も始めたとみられる」としているが、両親は気づかなかったのだろうか。実母は子育て本を出版しながら、その難しさを吐露していたというから、兆候は分かっていたのかもしれない。

 これに対して週刊新潮はむしろ、「最も重要なキーワードは“父親”」として、父親がこの事件の一つのカギであると述べている。毒物混入の時、「この時こそ、父親がAと向き合う最大のチャンスだった」としているが、この指摘は正しい。

 「15回行われるはずだったカウンセリングは2回しか行われなかった」ようで、まともに行われていれば、Aが間違った道へ突き進むことを防げたかもしれない。

◆「殺すな」教育できず

 Aを一人暮らしさせる前にも、精神科医から「人を殺しかねない」と“警告”されていた。それでもアパート住まいさせたことについて、同誌は「“未必の故意”があったのではないかと言われても仕方ない」という「全国紙社会部デスク」の見方を紹介している。

 同誌は「エリート家庭ほど世間体を気にして問題を表に出さないもの。(略)金属バットで殴られても警察沙汰にせず、娘を入院させなかったのは、父親が世間体を気にしていたからでしょう」という「精神科医の片田珠美氏」のコメントで記事を締めくくっている。

 何度かあったチャンスを「世間体」のために捨ててきた結果が、少女Aを殺人という凶行に行き着かせてしまった。「汝、殺すなかれ」は神が預言者モーゼに与えた「十戒」の一つである。“父なる神”ではないが、確かな「父」の不在が人としての根本的な戒めを曖昧にしてしまったのだろうか。

(岩崎 哲)