福井地裁「大飯差し止め」判決に躍る朝日など反原発紙のご都合主義
◆読・産が的確な批判
最近では稀にみる独善的な判決としか言いようがない。福井地裁が関西電力大飯原子力発電所3、4号機について運転再開の差し止めを命じた判決である。
東日本大震災に伴って起きた東京電力福島第一原発事故を教訓に、新たに厳しい規制基準が昨年7月に施行された。現在、同原発は定期点検のため停止し、再稼働に向け安全審査を申請して原子力規制委員会の審査を受けている最中であるが、その審査結果を待たないでの判決だからである。
原発の再稼働について、世論は二分した状態である。新聞の論調も、支持派の読売、産経、日経、本紙、反対派の朝日、毎日、東京と二分しているが、今回の福井地裁の判決は論調の如何に関わりなく、「司法の思い上がりと言われても仕方がない」(本紙24日付社説)代物である。
こうした批判が、支持派の新聞からしか出てきていないのは極めて残念である。論調とは無関係の、裁判所の在り方を問うているからである。
裁判所は「法の番人」(朝日22日付社説)であり、法律に関しては確かに専門家と言えるが、それ以外の分野では専門家ではない。だからこそ、読売(22日付社説)や産経(23日付主張)が指摘するように、最高裁は1992年の伊方原発の安全審査をめぐる訴訟の判決で「極めて高度で最新の科学的、技術的、総合的な判断が必要で、行政側の合理的な判断に委ねられている」(読売)との見解を示している。
◆司法の在り方の問題
大阪高裁も、別の住民グループが同様に再稼働の差し止めを求めた仮処分の即時抗告審で、専門家の集団である原子力規制委の審査が続いていることを考慮し、「その結論の前に裁判所が差し止めの必要性を認めるのは相当ではない」との理由から、この9日に差し止め要求を却下しているのである。読売は大阪高裁について「常識的な判断」と評したが、これは司法の在り方、役割の問題であり、原発是か非かの論調とは無関係のはずである。
福井地裁判決が「最高裁の判例の趣旨に反するのは明らか」(読売)であり、「司法の思い上がり」(本紙)的内容に反原発派の各紙が無批判なのは、自らの論調に沿うからというご都合主義の誹(そし)りを免れないであろう。反原発派各紙のご都合主義は、同地裁判決の科学的知見に対する姿勢でも同様である。
同判決は、関電側が主張する安全対策について、「地震の揺れの想定が楽観的で、安全技術や設備は脆弱(ぜいじゃく)」などとし、「(関電が設定した)基準値振動を超える地震が到来しないというのは、根拠のない楽観的な見通し」と断じた。
これに対して、再稼働支持派の新聞は、「原発の新たな規制基準を無視し、科学的知見にも乏しい。…非現実的な考え方に基づけば、安全対策も講じようがない」(読売)、「安全対策そのものを否定した」(産経)などと評したが、道理である。「百パーセントの安全はあり得ない。これを求めては技術立国や文明社会の否定につながる」(産経)し、「人間が生存する上で、ゼロリスクということ自体不可能」(本紙)だからである。
◆虫のいい情緒的表現
この科学的知見を無視したゼロリスクを求めることの問題点についても、反原発派からは批判が出ない。
反原発派の新聞社説(22日付)には、福井地裁判決は「国民の命と暮らしを守る」(朝日)、「国民の命を守る」(東京)などと抽象的、情緒的表現が並ぶ。
朝日は、判決は「人の生存そのものにかかわる権利と、電気代の高い低いを同列に論じること自体、法的に許されない」としたが、原発なしの場合でも、電力需給が逼迫(ひっぱく)し、節電から高齢者が夏に冷房を控えれば、それこそ命にかかわる危険がある。また電力コストの上昇は中小企業などの存続やそこに働く労働者の生活にかかわる重大事である。反原発だけが生存にかかわるわけではない。
同紙はまた、判決は「自然の前における人間の能力の限界」を指摘したとし、「限られた科学的知見だけを根拠に再稼働にひた走る(安倍政権の)姿勢を厳に戒めたといえる」としたが、人類の文明自体が「限られた科学的知見」の積み重ねでもたらされたものである。文明社会の恩恵を受けながら、それを否定するのは、虫のいい話でご都合主義の極みである。
(床井明男)





