首相「集団的自衛権」会見に「戦争」と不毛なレッテル貼りする朝・毎
◆一石投じた読売記事
安倍晋三首相が集団的自衛権の行使の限定容認に向け、憲法解釈の見直しを検討すると表明した。
これを各紙はそろって16日付で大きく報じた。その中で読売の永原伸・政治部長が「不毛なレッテル貼りを排し、具体的な事例に即して地に足の着いた議論を掘り下げるよう期待したい」と述べていたのが印象的だった。昨秋の特定秘密保護法論議以来、不毛なレッテル貼りが横行しているからだ。
永原氏がレッテル貼りとして挙げたのは「立憲主義の破壊」「戦争できる国」といった表現だ。いずれも朝日や毎日の常套(じょうとう)句である。だから今回も紙面を見なくても不毛なレッテル貼りが予想できた。それで永原氏は戒めを込めて書いたのだろう。その予想はずばり的中した。
朝日16日付の社会面トップには「近づく 戦争できる国」の大見出しが躍った。社説は「戦争に必要最小限はない」(社説)。いたるところに「戦争」の文字が登場する。まるで安倍首相が戦争を始めると言わんばかりだ。
一方、毎日はと言えば、「かすむ立憲主義」(政治面)「『不戦』大きな岐路」(社会面)「根拠なき憲法の破壊だ」(社説)と、安倍首相を憲法破壊主義者として描いている。
そうだろうか。安倍首相は記者会見でパネルを使って限定的行使の必要性を示した。その事例として日本に退避する邦人を乗せた米艦の防護、PKOで派遣されている自衛隊部隊が武器を使って民間人らを助ける「駆け付け警護」を挙げた。いずれも今の憲法解釈では認められていない。
◆「国民を守る」自然権
安倍首相は「憲法が、こうした事態に国民の命を守る責任を放棄せよ、と言っているとは考えられない」と訴え、「国民を守る責任」(本紙)を強調した。読売は「一国では平和守れぬ」、産経は「迫る脅威との隔離強く警告」としている。
刑法には強盗に殺されそうになった隣人を助ける「他者のための正当防衛」という概念がある。正当防衛とは「急迫不正の侵害に対して、自己または他人の権利を防衛するためやむを得ずする加害行為」(広辞苑)のことであり、自己のみならず他人の防衛も含んでいる。それが人としての道理だからだ。
それで国連憲章は国家の正当防衛権(自衛権)を固有の権利と認め、その正文であるフランス語では固有を「集団的個別的正当防衛の自然権」と書かれているという(岡崎久彦氏)。こういう国際法の常識を朝日らは顧みない。
また首相は漁民に偽装した武装集団が離島に上陸して占拠する事例も挙げた。いわゆるグレーゾーン事態だ。これは「今の時点で最も警戒が必要な非常事態」(日経・社説)で警察権と自衛権の境界にある。その対処方法の決定には憲法解釈の見直しも不要だ。
こうした事例をみれば、集団的自衛権の限定的行使やグレーゾーン事態への対応はいずれも「国民を守る」(あるいは隣人を助ける)という防衛に主眼が置かれている。これこそ国家の自然権だ。それをヒステリックに「戦争できる国」とレッテル貼りをするのは、まさに不毛である。
◆敗北した朝日的論調
前述の永原氏は、もともと9条解釈を大転換させたのは吉田茂だとする。1946年の憲法制定議会で吉田茂首相は9条について「自衛権の発動としての戦争を放棄した」と明言したが、50年に朝鮮戦争が勃発すると「主権国家が自衛権を持つのは当然だ」と大胆に主張を変え、警察予備隊、保安隊を経て、54年に自衛隊を創設。51年のサンフランシスコ平和条約の締結の際は日米安保条約も結んだ。
ところが当時、朝日新聞や岩波書店の雑誌「世界」で論陣を張った、いわゆる朝日岩波文化人たちは吉田批判の急先鋒(せんぽう)に立ち、自衛隊廃止や安保破棄を唱え、「非武装中立の道を歩め」と訴えた。それらの主張はことごとく間違っていた。非武装中立論も廃れて久しい。「どちらに軍配が上がったか、自明だ」と永原氏は論じている。
しかり、朝日的論調は敗北した。不毛なレッテル貼りはそのリベンジのつもりかもしれないが、国民にとっては大迷惑な話だ。マスコミ界に徘徊(はいかい)する「一個の妖怪」(マルクス)に他のメディアは引きずられてはなるまい。
(増 記代司)





