捜査手法改革論議に「可視化」賛成だけで「恥の伝統」を見落とす各紙

◆逆に自供しない恐れ

 法制審議会が捜査手法の改革論議を進めている。焦点となっているのが取り調べの過程を録音・録画する可視化をどうするかだ。密室での警察や検察の取り調べが、自白を強要したり誘導したりして冤罪(えんざい)を生み出しているとの批判を受けての可視化論議だ。

 それで新聞は「『全事件』が対象だ」(毎日1日付社説)、「対象事件の範囲をどう絞るか」(読売・同)と温度差があるものの、いずれも可視化に賛成する。むろん冤罪が防げるなら導入すべきだが、可視化によって逆に自供しなくなり、真相が解明されなくなっては元も子もない。読売が言うように範囲など慎重に検討すべきだろう。

 こうした論議で気掛かりなのは、自白を促す行為があたかも悪であるかのように論じられていることだ。朝日社説は全面可視化を唱え「(例外をもうければ)取調官が都合よく使い、制度を骨抜きにしかねない」と、取調官を性悪説つまり本性が悪であると言わんばかりに書いている。

 これも護憲主義の所産だろう。GHQ(連合国軍総司令部)が作らせた現行憲法は黙秘権だけでなく、自白についても強制、拷問、脅迫による自白は証拠とすることができない等々、こと細かく規定している(第38条)。

 これらは本来、刑事訴訟法で明記されるべき性質のもので憲法への記載はなじまないと、かねてから改憲論者に批判されてきた。そういうこともあって、朝日などの左翼新聞は執拗(しつよう)に自白否定論に立ってきた。右系メディアもこれに押され、自白の意味をあまり深く考えようとしない。

◆自白は更生プロセス

 こうした流れに異議を唱えたのが、故・佐藤欣子さん(元検事、弁護士)だった。自著『お疲れさま日本国憲法』(TBSブリタニカ)の中で、大正時代に起こった「鈴ケ森お春殺し」の真犯人、石井藤吉を紹介し、自白否定論を批判した。

 石井藤吉は自分の犯した殺人のために無実の男が処刑される事態を黙っておれず、名乗り出た。それで、一つの事件で2人が別々に起訴される前代未聞の裁判となった。彼の自供は一審で裏付けられず無罪になったので上訴し、控訴審で死刑となり、刑場の露と消えた。

 その手記はアメリカの宣教師に英訳され、『刑務所のジェントルマン』として世界に紹介され、ジャン・ヴァルジャン(『レ・ミゼラブル』の主人公)と並び称されたという。佐藤さんは「このような手続きよりは真実を中心とする強い真実主義、犯人の自白と改悛の情の重視と情状酌量による寛大な量刑が日本の裁判を特徴づけた」と指摘する。

 真実を明らかにする上で、重要な役割を演ずるものは何といっても犯人の自白であり、犯人にとっても自白は改悛、更生のプロセスとなる。また自白したこと自体が情状酌量の根拠とされてきた。

 それで佐藤さんは「罪人を地獄の業火に落としながら、秋霜烈日の閻魔の目は憐憫にうるんでいる。しかし、罪人は業火に焼かれることによって更生できるのである。『泣き閻魔』こそ司法の理想である」と言う。

 秋霜烈日とは、秋の冷たい霜や夏の激しい日差しのような気候のことで、刑罰・権威などが極めて厳しく、一方で厳かで温かみがあるとする喩えとされる。検察官の記章は「旭日と菊の花弁と菊の葉」をあしらったものだが、霜と日差しにも見えるので、「秋霜烈日」とは検察の職務と理想像を表している。

◆罪犯し免れる黙秘権

 だからこそ、わが国では黙秘権を行使することは道徳的な非難を招き、情状酌量を受けられなくなるので容疑者や被告人にとって不利と考えられてきた。にもかかわらず憲法第38条はこうした改悛と更生のプロセスを顧みず、ことさら黙秘権を勧めると佐藤さんは批判するのだ。

 旧憲法には被疑者は真実を供述する義務があったが、現行憲法は黙秘権だけをうたうだけだ。黙秘権は「恥を知る伝統」がある日本人になじまず、38条は「免れて恥なき社会」に自ら貶(おとし)めていると佐藤さんは痛烈に批判している。

 これは法制度への根本的な問いかけだが、こうした観点をどの新聞も書こうとしない。そろって「恥なき社会」に鈍感だ。佐藤さんは今回の改革論議を苦々しく思っているに違いない。

(増 記代司)