日本人の優秀さを改めて確信させた週刊朝日「伊能忠敬“地図人生”」
歩行距離は地球1周
伊能忠敬(ただたか)(1745~1818)が17年をかけて全国を測量し、日本で初めての日本地図を完成させたのは1821年、今から200年前のことだ。週刊朝日12月17日号の「『大日本沿海輿地全図』上呈から200年 伊能忠敬の子孫が語る“地図人生”秘話」は、忠敬の子孫で忠敬から数えて7代目に当たる伊能洋さん(87)に忠敬にまつわる逸話を聞き出しており、興味深い。洋さんは忠敬のことを親しみを込めて「チュウケイ先生」と呼ぶ。
忠敬は商人として人生の前半を終え、50歳から今でいう第2の人生に当たり天文学者・高橋至時(よしとき)に師事。生来、「純粋に地球の大きさを知りたかった」「九十九里の網元の子どもだったチュウケイ先生は、毎日星を見て天文や宇宙に対する夢を育んでいた」(洋さん)が、その夢を実現させる時が来たのである。
現在の技術をもって作られたものと寸分違わぬ日本図を200年以上前に描いた忠敬。それはどうやって可能になったのか。「忠敬は、緯度の差と緯度の距離を測り緯度1度の長さを出せば地球の大きさがわかると考え」、周辺を測量。師匠の至時の助言を得て試行錯誤を繰り返し、2地点から目標の方位を測り、距離の間違いを補正する方法で、緻密な測量を繰り返した。科学的勘の良さと粘り強さが合致した。歩いた距離はトータルで約4万キロ、地球1周分になる。
洋さんによると「伊能図は山や海が丁寧に彩色され、芸術的な美しさを持っていることも忘れてはなりません。夜間の天測を行った地点に星印が付いていることも独特です。実測できなかった箇所の『不測量』も他の地図に見られず、科学者としても矜持(きょうじ)が如実です」と。
英国海軍は測量断念
1828年、ドイツ人医師のシーボルトがこの「大日本沿海輿地全図」(伊能図)の写しを国外に持ち出そうとして発覚、国外退去させられたシーボルト事件は有名だ。しかし「シーボルトは伊能図の一部をすでにオランダに送っており、それを見たロシア海軍中佐のクルーゼンシュテルンは出来栄えに驚愕した」という。
またそれから30年余り後の61年、当時世界最高水準の地図を作っていたイギリスの海軍が日本地図を作るべく幕府に許可を願い出た。この時、幕府は伊能図を披歴したが、それを見た英海軍があまりの出来の良さに驚き、自分たちで測量することをついに断念した。
わが国は明治時代に、西欧が培った自然科学部門でその超一流に比肩する科学者を輩出している。幕末に生まれ、後に土星型原子モデル提唱などの業績を残した長岡半太郎は、原子核を発見したラザフォードに激賞された。明治3年生まれの本多光太郎は磁性鋼であるKS鋼、新KS鋼を発明しノーベル賞候補にもなった。既に江戸後期には伊能のような優れた科学者が活躍していたことを思えば、その後のわが国の物理・化学分野の発展はむべなるかなである。
クジラ糞、地球救う
話は変わるが、ニューズウィーク日本版11月30日号の「クジラのうんちが地球を救う?」という記事。サイエンスライター、ジェニー・モーバー氏のリポートで、クジラの糞(ふん)には「海洋生物に不可欠な微量栄養素である鉄分が豊富に含まれている」という、最新の科学知識を紹介している。この鉄分が海の生物全体に影響を与えている可能性が高く、クジラが糞を多く出せば生物的なシステムが活性化し、「地球の生き物全てが恩恵を受ける」と論じている。
ところで古来、日本ではクジラの利用は肉や脂、皮から内蔵に至るまで、用途も薬品や工業用品に及んだ。鯨骨は鯨油や肥料に、血は薬用に、そして糞は香料に用いられた。もちろん科学的手法で糞の成分などを分析していたわけではない。日本人は、クジラの効用性について経験的に知り、隅々まで加工していたものと思われる。日本人の直感力、生活力に驚嘆せざるを得ない。
(片上晴彦)