宮内庁長官の「拝察」発言で国民の反応を不審がる作家・高村薫氏

◆国民はご発言に共感

 さる6月24日、西村泰彦宮内庁長官は定例会見で、東京五輪に関し「天皇陛下は現下の新型コロナの感染状況を大変心配されている」と述べ「国民の間に不安がある中で、開催が感染拡大につながらないか懸念されていると拝察している」と話した。この西村宮内庁長官の発言に対し加藤勝信官房長官は同日の記者会見で「長官自身の考え方を述べられたと承知している」と語った。

 この件で作家の高村薫氏はサンデー毎日7月25日号の「サンデー時評」に、「天皇が懸念の言葉を発せずにすむ社会を」と題し取り上げ「首相、官房長官、オリ・パラ担当大臣は『長官自身の考え』として一蹴し、国民の関心も低いまま、ほぼ一日で報道は消えたが、おそらく真意に近いのだろう天皇の懸念へのこの無反応を、私たちはどう考えるべきなのだろうか」と自問し、次のように答えている。

 「(前略)一般国民のように自由に私見を表明してよいということになれば、それはもはや『象徴』ではないと言うほかはないが、宮内庁長官の『拝察』に限っていえば、国民の不安を顧みない政府への、天皇のやむにやまれぬ異議申し立てだったに違いない。その一方、憲法に触れる危うさゆえに、私たちの社会は早々にこれを無かったことにしたのであり、こういうねじれた着地しかないのが、象徴天皇を戴(いただ)く現代日本の国のかたちなのである」と。

 果たして高村氏の言うように「国民の関心も低いまま」だったのか。いやむしろ、「国民の間に不安がある中で、開催が感染拡大につながらないか」という陛下のご発言に、国民の大多数が内心、快哉(かいさい)を叫び感じ入り「よくぞおっしゃってくださった」ということではなかったか。胸のうちにストンと落ち共感、共鳴したからこそ、その後の加藤官房長官の記者会見など一連の対応について、国民はかえって冷静、客観視することに終始できたように思う。

 高村氏は「天皇が国民の安寧を祈る以外の言葉を発しなくてすむような社会を営むべきなのだ」と皮肉を込めた一文で締めているが、五輪直前の時期、天皇陛下がそのご心中を吐露され、国民もまたそれをストレートに受け取ることができるわが国の社会の体制なりシステムこそ、まさに民主主義の成果、真骨頂であると言うべきだ。

◆白井氏の“勇み足”

 同様の件で、週刊朝日7月30日号に政治学者の白井聡氏が「天皇の『懸念』を無視する安倍・菅体制の『崩壊』」と題し書いている。白井氏は京都精華大学人文学部講師、専門は政治学、日本思想史で朝日新聞社系雑誌によく出る。

 宮内庁長官の「拝察」発言で「『拝察』は、事実上の天皇の意思表示である。これに対して、政府首脳は『西村長官の個人的見解』であるとの受け止めを明らかにした。言い換えれば、西村長官は自分の主観的印象にすぎぬものを『天皇陛下の意思である』と述べたと見なしている」。ゆえに「菅義偉は西村長官を解任せねばならない」と論を進めている。しかしこれは白井氏の勇み足の解釈。政府は西村長官の「拝察」を「主観的印象」と言い換えただけで、「天皇陛下の意思」うんぬんについては一言も触れていない。加藤官房長官は、陛下のお言葉が左翼陣営などに都合よく利用されるのを危ぶんで、言わずもがなのことを言ったと見るべきで、政府が「天皇の『懸念』を無視する」などの見方は筋違いだ。

◆思い込みが過ぎる論

 白井氏は、今回の件でマスコミの関心が今一つだったことに対し「(天皇陛下の)『懸念』が何らかの政治的効果を持つならば、それは政治行為になりうる。だが、一人の人間として当然の、悪に加担したくないという意思の表示をも政治的効果の可能性から憲法違反として禁じるべきと考える言論人は、天皇制廃止を主張すべきだろう」と。

 「ところが大方のリベラル派は世論に配慮して『天皇をなくせ』とは言わない。そこにあるのは、言論の頽廃にほかならない」と続ける。思い込みが過ぎる論旨というほかなかろう。

(片上晴彦)