戦前は軍国主義を煽り、戦後は共産主義褒めちぎった朝日135年
◆被害者面はおかしい
読売は「都知事選を問う」のシリーズで、原発を「時代遅れ」と決め付ける陣営に対して次のように述べている。
「それは、周辺に核保有国がありながら『非武装中立』を唱えた左翼・リベラル勢力の姿勢と重なる。まるで、外敵に遭遇すると砂の中に首を突っ込むダチョウのように、周囲の環境や現実を直視しない『砂漠のダチョウ』的思考と言っても過言ではない」(26日付)
なかなか手厳しい批判だが、正鵠(せいこく)を射ている。「非武装中立」を唱えた「左翼・リベラル勢力」の新聞界の筆頭は言うまでもなく朝日である。それも「唱えた」という過去形でなく、現在形で続いている。
折しも25日に朝日は創刊135周年を迎えた。25日付では中面に見開き特集を組み、135年間の年表と主だった過去の「1月25日付朝刊1面」を掲載した。その中で前田浩次・社史編修センター長が朝日の歴史を簡略にまとめている。が、それを読むと「ちょっと事実と違うのではないか」と、違和感を覚えざるを得ない。
前田氏は「大正期、朝日新聞は憲政擁護・軍縮の論陣を張ります」「しかし日本は戦争へと突き進みます。朝日新聞は、不買運動などに苦しみつつも軍拡に抵抗しましたが、満州事変で社論を転換。その後の新聞統制と用紙制限で、報道の自由を失ってしまいます」と、被害者面(づら)で書いている。
「社論を転換」とあっさり書くが、それでは済まされない。朝日をはじめとする新聞が軍部を煽(あお)って戦争への道を駆り立てたことは、ジャーナリズム史では常識の部類に入る。東大名誉教授の鳥海靖氏は「(満州事変以後の戦争の歩みは)多くの新聞が軍部の行動を積極的にバックアップする論陣をはることを通じて推進された」(『日本におけるジャーナリズムの特質』)と指摘している。
◆ナチスも文革も礼賛
とりわけ朝日は国際連盟脱退キャンペーンを張り、日独伊三国同盟締結を「歴史的必然」(昭和15年9月29日付)と扇動し、ナチス・ドイツ礼賛記事を書きまくった。にもかかわらず、こうした史実を捻(ね)じ曲げ、「報道の自由を失ってしまいます」とは呆れた物言いである。こういう逃げ口上はかねてから批判の的だった。例えば――、
「戦後よく、新聞は『軍部の弾圧によって書きたいことを書けず、やむをえず戦争に協力した』という式の言い訳がなされます。…しかし、満州事変のころの新聞を概観しただけでもこの『被害者神話』というのは曲者であります。当時の政府の穏健路線を支持するよりも、これに反発していったのは、他律的力に動かされてというよりも、むしろ自発的であった」(漆山成美『悲劇は始まっている』)
戦後について前田氏は「痛切な悔恨から戦後は再出発します」とし、「(紙面は)世界を知る窓となると同時に、言論の自由を貫き、不法・暴力・腐敗と戦う人々の集いの場となりました」と自賛するが、これにも首を傾げる。
「世界を知る窓」は共産国にだけ開き、「砂漠のダチョウ」よろしく、ソ連や中国に同調し続けた。共産主義の不法・暴力・腐敗を見ようとせず、自由陣営を貶(おとし)めようとする左翼の「戦う人々」の「集いの場」になったにすぎない。
それで昭和20年代には空想的平和論で全面講和論をリードし、共産党幹部の伊藤律の「架空会見記事」(25年9月27日付)まで放ち、30年代には反米・反安保闘争をけしかけた。40年代には数千万人が死亡したとされる中国の文化大革命を手放しで褒めちぎり、「秘密協定」を結んで報道の自由を売り渡した(衛藤瀋吉『新聞亡国論』)。また北朝鮮を「楽園」とも書いた。
「痛切な悔恨」が必要
50年代には共産軍の侵略だったベトナム戦争を「民族解放闘争」と書き続け、看板記者の本多勝一氏は「難民を虫ケラ扱い」(殿岡昭郎『言論人の生態』)にした。「侵略」を「進出」に書き換えたとする教科書検定大誤報(昭和57年6月26日付)をやってのけ、60年代にはスパイ防止法潰しに血道を上げた。
平成に入っても、中国や原発報道で見られるように「砂漠のダチョウ」的思考に変化は見られない。創刊135周年、朝日に今必要なのは、それこそ「痛切な悔恨」だ。
(増 記代司)