座間事件裁判、「罪と罰」から逃避し死刑判決への意思表示をしない朝毎

◆極刑以外の結論なし

 「罪と罰」は古代からのテーマだ。紀元前17世紀のハムラビ法典には「目には目を、歯には歯を」とある。奪ったものと同じものをもって報いる。これが罪刑法定主義の起源とされる。ロシアの文豪、ドストエフスキーは『罪と罰』の中で、人を殺した主人公に若き娼婦の口を通してあがないの道を説く。

 「今すぐ行って、四つ角に立って、身を屈めて、まずあなたが汚した大地に接吻をなさい。それから全世界に向っておじぎをして、四方に向って、みんなに聞こえるように―『わたしは、人を殺しました!』こうおっしゃい! そうすれば神さまがまたあなたに生命を捧げて下さいます。行きますか? 行きますか?」(岩波文庫『罪と罰』)

 神奈川県座間市のアパートで、10~20代の男女9人を殺害した白石隆浩被告はどうだろう。所持金を奪って性的暴行をするのが目的で「人を殺した」。読売12日付によると、被告は「捕まったから後悔しているが、犯罪への後悔はない」と遺族の心情を逆なですることもいとわなかった。意見陳述に立った遺族から「お前を死んでも許さない。娘を返せ」の怒号が法廷に響き渡ったという。

 むろん日本の法は「目には目を」ではない。死刑適用には「永山基準」(1983年、最高裁)があり、犯罪の動機や犯行後の情状、遺族の被害感情などを総合的に考慮し、刑事責任が極めて重大で、死刑をもってしか裁けない事犯に死刑を認める。それで東京地裁立川支部は「犯罪史上、まれに見る悪質な犯行」と断じ、死刑を言い渡した。

 この判決に異議を唱える新聞はない。産経は、「残念ながら世の中には、厳刑をもってしかあがなうことができない罪がある」とし、「死刑の必要性を痛感する」と論じた。読売も「極刑以外の結論はなかったと言えよう」としている(16日付社説)。

◆産経の挑戦的見出し

 これに対して毎日は「SNS犯罪の惨劇忘れぬ」と、もっぱらインターネット交流サイト(SNS)の危険性や相談事業の拡充など「SNS」に焦点を当て、死刑判決への意思表示をしない(16日付)。朝日も「悩み受け止める態勢を」と、「SNS」に焦点を当てるだけだった(17日付)。

 もとよりSNS対策は再発防止に必要だろう。だが、それは犯罪のツールにすぎない。裁判(罪を犯した人にどんな罰を与えるか)に対する論説とは言い難い。「罪と罰」から逃避しているのだ。

 なぜ、逃げるのか。それは死刑制度に反対だからだろう。それで今回の判決に面と向かってモノを言おうとしないのだ。それを見越して産経は敢(あ)えて「死刑の必要性を痛感する」との挑戦的な見出しを掲げたのではないか。これは朝日だけでなく日本弁護士連合会(日弁連)に対する挑戦状のような気もする。

◆「赤い闇」持つ日弁連

 産経10月4日付に北村晴男弁護士が「弁護士会という病 『死刑廃止』決議の不可解な内幕」を寄稿している。日弁連は2016年に死刑制度廃止宣言を採択したが、それは全弁護士のわずか1・4%の意思表示でしかなかった。北村氏は東京弁護士会の廃止宣言もそうだったとし、「弁護士会」という全弁護士が加入しなければならない強制加入団体、公的団体で政治運動するのは「多くの弁護士の思想信条の自由を害し、社会を欺く暴挙に他ならない」と指弾している。

 また産経11月16日付は京都弁護士会の南出喜久治弁護士が日弁連の死刑廃止宣言は会の趣旨に反しているとして宣言の無効確認を求める訴訟を提訴すると報じている。日弁連も日本学術会議と同様の「赤い闇」を抱えているのだ。

 かつて朝日は死刑執行を指示した鳩山邦夫法相を「死に神」呼ばわりした(08年6月18日付夕刊「素粒子」)。判決のほとぼりが冷めれば、「罪と罰」から逃避したまま死刑容認派に「死に神」のレッテルを貼るつもりかもしれない。

(増 記代司)