報道の自由を威圧し言論統制してきた沖縄地元2紙の「リベラル神話」
◆米軍の支援受け創刊
かつて作家の百田尚樹氏は自民党若手議員の勉強会で講演し、沖縄地元紙の偏向ぶりを語った。その質疑応答の雑談で誰かが「沖縄の2紙は厄介ですね」と言った言葉を受けて「ほんまや、つぶれたらいいのに」と軽口で応えた。会合は私的なもので非公開だったが、左派紙は「沖縄の尊厳・報道の自由を威圧」(朝日)、「言論統制の危険な風潮」(毎日)と居丈高に書き立てた(2015年6月)。
沖縄2紙とは沖縄タイムスと琉球新報。左派紙の“百田(たた)叩き”を受け両紙の編集局長が上京、日本外国特派員協会で記者会見し「(沖縄には)戦後10以上の新聞があり、淘汰(とうた)されて残ったのが2紙。県民に支持されてきたからだ」「違うトーンの新聞が出てくるのを排除しているわけではない」と反論した。
それから5年、朝日10月21日付オピニオン面のインタビュー記事で与那嶺一枝・沖縄タイムス編集局長が同じ趣旨の発言をしている。与那嶺氏は当時の編集局長の後任だが、「沖縄は新聞社が数多く生まれ、消えてきた歴史があります。その中で多くの県民にとって必要な情報を届けてきたことで生き残ったのが、リベラルな2紙です」と自慢げに語っている。
リベラル2紙は県民に支持されてきたから生き残ってきた? いやいや、そんな代物ではない。これは当の2紙がつくった「リベラル神話」にすぎない。真に受ける人がいないとも限らないので、本当のところを見ておこう。
2紙は終戦後、米軍から手厚い支援を受けて創刊された。琉球新報は1945年、米軍が沖縄県民を使って住民宣撫(せんぶ)工作の機関紙として石川市(現うるま市)で発刊した「ウルマ新報」が始まりだ。沖縄には1893(明治26)年創刊の「琉球新報」があったが、戦時下の一県一紙統合で姿を消し、現在の琉球新報とは別物だ。それを商標登録もない米軍統治下の1951年、勝手に琉球新報に改題し、68年2月1日付からは発行の通し番号を戦前の琉球新報の分を併せて記載した。詐欺まがい、「背乗り」(他人の戸籍を乗っ取って成り済ます)である。
一方、沖縄タイムスは48年7月の創刊。米軍は沖縄の「離日政策」を徹底するため新たな宣撫新聞を必要とし、これに戦前の新聞人が応じた。「創刊のことば」は「アメリカの軍政に對(たい)する誠実なる協力」を唱っている。50年代には10紙ほどが米軍から資金援助を受けたが、米軍との軋轢(あつれき)や経営の行き詰まりで廃刊した。「県民の支持」以前の経営破綻で消えた。
◆つぶされた保守系紙
沖縄復帰を控えた60年代後半、「第3の日刊紙」と呼ばれた「沖縄時報」があった(67年8月~69年9月)。行政主席選挙などで2紙が革新系を全面支援したため財界人らの資金提供で創刊されたが、左派陣営は同紙記者の取材を拒否。行政府(現、県庁)の記者クラブから除名、紙面で使っていた時事通信の記者もボイコットされ、廃刊に追い込まれた(山城義男・元沖縄時報労組委員長=『沖縄の新聞がつぶれる日』沖縄フリージャーナリスト会議編)。
70年代に部数を減らした沖縄タイムスは、83年に当時の比嘉敬社長が改革を断行。それは「共産党より左といわれた革マルの闘士だった新川明氏にバトンタッチした。朝日新聞に右へ倣えしている傾向が見られるタイムスだからできた思い切った人事」(渡久地政夫・元琉球新報記者=前掲書)で、それ以降、左傾化に拍車を掛けた。
◆「お悔やみ欄」で存続
両紙の部数はかつていずれも20万台だったが、現在は15万台(計30万部)に落ち込んでいる。ちなみに県民は143万人65万世帯。それでも生き残っているのは与那嶺編集局長が言う「多くの県民にとって必要な情報」を届けているからだ。といっても、それは「お悔やみ欄」だ。
とまれ報道の自由を威圧し、言論統制してきたのは地元2紙の方だ。「リベラル神話」に騙(だま)されてはなるまい。
(増 記代司)